「朝から、もうイライラするわ」
しゅんくんママは、のやんちゃなしゅんくんが走り回っているのに追いつくのが、大変でした。
ママがいくら若いといってもついていけません。
しゅんくんは、目を離せないほど、
何をするかわからない予測がつかず、
どこまでも動き続けるのです。
追いついて、抜かされ、つかまえては逃げられるの連続です。
これが朝からもう昼まで続いているのです。
家の中では走り回ると危ないと思って、
気分転換に公園に連れていくと、
さらに大変なことになってしまいます。
砂場の砂を空中にまき散らし、
遊具の上に登っていき、
果てには公園から交通量の多い道路に行こうとするんです。
首に縄付けておきたいというのは、
こういう状態でしょうか。
真理子さんは、そんな自分の子どもであるながら、
しゅんくんの子育てで、身も心も疲れ果てています。
もちろん、しゅんくんへの愛情は十分あると思っています。
私だけでしょうか。こんな子育てで悩みを抱えているのは。
子育ての不安が、一気に降り注いできます。
実家の母親に聞いてみると、
「あなたの弟もそうだったよ。大変だったのよ。」と。
「成長すると、いずれ落ち着いてくるから、辛抱だよ」
って、励まされます。
「いずれ」でなくて、「今」何とかしたいのです。
そんな今なんともならない気持ちを
吐き出したいのですが、どうにもなりません。
遅くに帰ってきた夫にも話してみました。
「おまえは、一日中、家にいるんだから、そんなことぐらい我慢して当たり前」
って、気持ちを分かってくれません。
「私は、どうしたらいいのでしょうか」
「私だけ、子育てで苦しんでいるのは」
「私は、一生懸命やっているのに」
「誰もわかってくれない」
悩みがつきまといます。
「私の人生は、子育てがすべてなんだろうか」
「子どもはかわいいんだけど、子育てだけで毎日が過ぎていく」
「私だってしたいことあるし、夢だってあったのに、一生子育てで終わるのかなあ」
かわいい手をつなぎながら、
公園から帰る中で、様々な思いがよぎったのでした。
重くなっていくしゅんくんを腕に抱きかかえて、思うのでした。
「この子が静かでおとなしいのは、食事をとるときと、寝ているだけじゃない」
「やっと、私の時間ができる」
「疲れているから、横になろうかなあ」
「最近は、好きなおしゃれやショッピングしてないなあ」
「もっと、私のこと、見てほしいし、がんばっている私をほめてほしい」
真理子の心は、
グレーの靄がとれないまま、
今日もまた、遅くに帰ってくる夫の夕飯を準備しているのでした。
「しゅんの将来のこと考えると、へこたれてはいけない、
私がそばにいて、しゅんのための頑張らないといけない。
しゅんのためにできるのは私しかいないから。がんばろっと」
夫の夕飯を盛り付けて、ソファーで横になったら、
不覚にもウトウトしてしまい、
ピンポ-ンの音も入ってきた夫にも気づかずに、
夫を横になったままおかえりしました。
夫も「疲れているね」と言ってくれればいいのに、
「俺も疲れてるんだ。さっさと飯の用意してくれ」
と言います。
今日あったことやしゅんが大変だということを話そうとするのですが、
「そんなのお前が見てやればいい。しっかり面倒見てるのか。」と
子育ての大変さを理解しようとしません。
「私の人生返して」って、叫びたい気分です。
私は、「「しゅんくんママ」だけど、
「真理子」っていう自分の名前があるんだから、
真理子で自分らしく子育てでも楽しみながら生きていくんだ」
と思ってかわいいしゅんくんの笑顔をやさしく見つめるのでした。
「ママほめ」は、
初対面のメンバーを集めて、
リアル会場で行っても盛り上がります。
ママほめを子育て心理学協会のイベントとして、
東京・大阪・名古屋を会場として数日間開催したところ、
それぞれの日程でちょうどよい50人ぐらいの参加者が集まりました。
知らない人同士でも
、ママという役割(仕事)では、多くの共通項があるわけです。
初対面でも、立場や年齢が違っていても、
子育てや家事、仕事を、女性として同じような「当たり前」を発見できます。
「ママほめ」は、
悩みの相談や愚痴のはけ口をするのではありません。
しかし、ふだんママが当たり前にやっていることを話して、
周りの人から拍手や「すごーい」という言葉を聞くと、
ママの「ココロ貯金」がたまっていきます。話した人だけでなく、
拍手をしたまわりの人も共通の気持ちがあって、同じ行動をしているので、
「ココロ貯金」がたまることになります。
「ママほめ」は、特別なことでなくてもいいのです。
日常の当たり前とは、特別立派なことでなくてもいいのです。
「朝起きて偉い」
「家族の洗濯をしてえらい」
「犬の世話と散歩をしてえらい」
など多様多彩です。
また、どの内容も、ママが想像できる身近な内容ばかりです。
人によって、子育てにかける物資やお金は違っても、
子育てとそれに関連するママとしての役割は、
子どもが健やかに育ってほしいという願いのもと共通なのです
(であってほしい)。
その当たり前の裏側に、苦しさ・辛さ・悲しみなどがついてきます。
子育ては、大人の共同作業であるべきです。
共同する人は、
夫であり、
父母であり、
ママ友であり、
ご近所さんであり、
学校の先生で子どもを育てていきます。
しかし、一番の責任ある場所は、家庭です。
ママには「一人で子育ての悩みを抱え込まないで」とよく言われます。
まわりと疎遠になっている家族が増え、
自分の子育ての悩みもいえる状況でないたため、
ママ友だけでなく、コミニティーでの子育てサークルや学校での家庭教育学級などの存在が
必要となってきているのでしょう。
しかし、リアルママほめイベントでは、
悩み相談や愚痴の言い合いはタブーにしています。
とにかくほめることです。ほめ合うことです。
れで、「当たり前」の子育てや家事が、
ママが、子どもや家族のために、時間を使って
、尽くしている部分をクローズアップするのです。
「私って、すごーい!」
ママをしたことのない人には伝わりませんが、
ママの子どもを大事にしている気持ちや思い、
そして、子どもや家族への心配りなど、
いっぱいの当たり前に支えられて、
子どもも家族も生活できていることに気づきます。
ママがいないと大変なことになります。
それにも気づきながら、
ママの役割を支えているママの人間性が浮かび上がってきます。
〇〇ママ(〇〇はお子さんの名前)でなく
「□□さん」(□□はママの本名)としての生きがいなども浮かび上がってきます。
すると、子育ての意味が、
仕事ではなく、生き方そのものであると気づきます。
よく、
「子育ては、親育て」とか、
「子育ては、自分を見つめる機会になる」といわれますが、
そういうことを意味しているのでしょう。
子育ての成果は、
子どもの姿ではありません。
子育ての成果は
、ママ自身の生き方に誇りと自信をもてる生きがいづくりだとも言えます。
子育ては、
子を持つママにとっては行う当たり前のことです。
ママ自身も子育てによって今があるわけです。
当たり前だけに、誰もほめてはくれませんし、認めてはくれません。
やって当たり前、できて当たり前だからこそ、救われない自分の気持ちがあります。
もっと自分をほめてやってほしいという気持ちから「ママほめ」を始めました。
世の中のママが救われるようにママほめをいっぱいして、
自分を救い自己肯定感を高めていきましょう。
やる気と自信は、お子さんでなく、
まずママが必要です。
がんばってね。