体験談
◆登校しぶりのはじまり
「いってらっしゃい」
夏休みが明けて、9月も半ばを過ぎたある朝のこと。
いつものように、小学2年生の娘を送り出しました。
いつもなら登校班のお友だちと一緒に学校へ向かうはずなのですが……しばらくして娘がひとりで戻ってきました。
忘れものでもしたのかなと様子を見にいったその瞬間、ぽろぽろと涙をこぼしながら、
「やっぱり、行きたくない」
とつぶやいたのです。
「どうした?」
動揺を隠しながら問いかけても理由は述べず、ただ「行きたくない」と繰り返すばかり。
その日は定時の登校をあきらめ、途中から学校へ行かせることにしました。
まさか、これが長く続く登校しぶりのはじまりになろうとは――
このときのわたしには、想像もつきませんでした。
それから娘の登校しぶりは、日ごとに悪化していったのです。

【お母さんのプロフィール】
小学3年生の女の子のお母さん。小学2年生の夏休み明けに、お嬢さんの登校しぶりがはじまる。子育て心理学カウンセラー養成講座を受講したのは、お嬢さんが小学2年生の冬。
◆強まっていく母への依存
「お母さん、どこっ?」
切羽詰まった娘の声が、家の中に響きます。
登校しぶりが深刻になるにつれ、娘のわたしへの依存は強まっていきました。
トイレや洗濯などで、ほんの少しわたしの姿が見えなくなるだけで、激しく動揺して探しはじめるのです。
まるで、必死で母親を追いかける幼い子どものようでした。
「ちょっと2階に行ってくるね」
声をかけると、不安そうに2階までついてきます。
四六時中、わたしにぴったりくっついている状態でした。
10月の終わり頃、学校に行けない子を受け入れている「教育支援センター」に通うようになりましたが、
ここでもわたしと離れることを強く嫌がり、泣き叫んで抵抗しました。
それでも、「家の中に閉じこもってほしくない」という思いから、胸が締めつけられるような気持ちで、娘を引きはがすようにしてセンターへ送り出していたのです。
◆2つの拠点の“送迎”係
今日はどうするんだろう。
すんなりと行けるかな? それともまたしぶるかな?
何時になったら行くんだろう。
支援センターには、行けたり行けなかったり。
10時の始業に間に合う日もあれば、午前中2時間のうち1時間だけ行くこともあり、結局「今日はお休みしようか」となることもありました。
下手に「どうする?」などと聞けば娘を追いつめてしまう気がして、いつも彼女の表情を探りながら過ごしていました。
毎朝心が落ち着かず、空気を読むことに神経をすり減らす日々でした。
不思議なことに、娘は「給食だけは学校で食べたい」と言いました。
そのため午前は支援センター、午後は学校、と2つの拠点を“はしご”する生活。
学校とのつながりが完全に途切れないのはありがたい反面、送迎の負担はかなりのものでした。
「給食が終わったら戻ってきてね」と言われるので、教室まで送り届けたら急いで車に戻り、慌ただしく自分のごはんをかきこみます。
——何がいけんかったんだろうな。
ひとり必死にごはんを詰めこむ自分がみじめで、涙が出そうになることもありました。
よそのお母さんたちはきっと、子どもを送り出したあとの時間を、少しリラックスして過ごしていることでしょう。
娘のコンディションに振りまわされる生活は不規則で、今までのように勤めに出るのがしんどくなっていきました。
悩んだ末に、会社の制度を使って、しばらく仕事を休ませてもらうことにしました。
◆ココロ貯金との出会い
娘中心の生活に心も体も疲れきっていた頃、偶然出会ったのがココロ貯金でした。
子育て心理学カウンセラー養成講座を受講して、最初に取り入れたのは、“名前呼び”だったと思います。
朝「おはよう」と声をかけるときには、必ず名前を添える。
娘がなかなか起きられないときは、やさしく肩に触れたり髪をなでたりしながら、目覚めるのを待ちました。
そんなある日、ちひろ先生がおっしゃった言葉が、わたしの心にすっと入ってきたのです。
「離れない子どもは、カンガルーみたいにくっつけておいたらいいんですよ」
「“離れよう”ではなく、“離すものか”くらいの気持ちでいいんです」
——あ! それかもしれない。
聞いた瞬間、一筋の光が射しこんだ気がしました。
ちひろ先生の言葉はまるで何かの啓示のように、まっすぐにわたしの心を照らしたのです。
◆カンガルーの親子
それまでは、「娘の望むままに、ずっと一緒に行動するのはよくないのではないか」「ときには心を鬼にして突きはなすべきなのではないか」と心のどこかで思っていたのです。
でも、迷いが消えました。
支援センターに行くのも一緒。
家の中でも一緒。
ちょっとした私用にもついてくるので、もちろん一緒。
まるでカンガルーの親子のように、ごはんも、お風呂も、寝るときも、ぴったりくっついて過ごしました。
心がけたココロ貯金は、とにかく“触れる”ことでした。
支援センターへ向かうときやお友達と遊びにいくときには、挨拶がわりにハイタッチ。
ソファに並んで座っているときには、マッサージをしたり、おんぶしたり。
すると、少しずつ変化が見えはじめました。
「お母さん、どこ?」と娘に探されることはしだいに減っていき、外食ができるようになり、娘が外に出られる機会は着実に増えていったのです。
◆つきそい登校
2年生の3学期が残りわずかになってきた頃。
娘は少しずつ、給食だけでなく授業にも顔を出せるようになっていました。
お勉強のカリキュラムがひと通り終わり、リラックスした雰囲気の“体験型”の授業がふえていたのも、背中を押してくれたのかもしれません。
終日学校で過ごすのはまだむずかしかったのですが、わたしがつきそいながら、2~3時間授業を受けて給食の前に帰る。
そんな日々をひと月ほど続けました。
保育園から一緒の子が多いので、わたしが教室にいると屈託なく聞いてきます。
「おばちゃんどうしたの?」
「ちょっと一緒におらしてな」
はじめは不思議がっていた子どもたちも、しだいに慣れていきました。
町探検や防災訓練。
子どもに混ざって、さまざまな行事に参加させてもらったのは、今となってはかけがえのない経験です。
けれど当時は、先の見えない不安の方がふくらんでいました。
つきそいは、いつまで続くんかな。
これからどうなるんかな。
会社の規定で定められた休暇の期限が迫り、4月からは復帰しなければなりません。
——娘が普通の生活に戻れなかったら、わたしは仕事をやめるんかな。
得体のしれない未来がぱっくりと口をあけているようで、今にも飲みこまれそうな恐ろしさを感じていました。
◆不安を越えてその先へ
「始業式が終わった次の日から、お母さんは仕事に復帰するからね」
「お迎えは、今までみたいに早くいけんからね」
「お母さんもがんばるから、一緒にがんばろう」
春休みのあいだ、くり返し娘と話しあいました。
少しずつ教室にいられるようになっていたとはいえ、 春休みで2週間のブランクがあります。
「どうかな、どうかな」と胸がざわつき、不安と期待が入り混じった気持ちで過ごしていました。
——そして迎えた4月。
なんと娘は、毎日、朝から学校に通えるようになったのです。
登校班ではなくわたしが送っていきますが、児童玄関で「いってらっしゃい」と手を振ると、そこからは娘ひとりで教室へ。最後まで授業を受けて、そのまま学童へ行き、夕方わたしが迎えにいきます。
ありふれた日常が戻ってきた幸せを、今じんわりとかみしめています。
娘は明るい表情で、学校の話をたくさんしてくれるようになりました。
「先生がこんなこと言ったよ」
「友達とこんなふうに遊んだよ」
「理科の実験が面白かった!」
「リコーダーを習った」「ローマ字を習った」……
愚痴も笑い話もひっくるめて、なんでも話してくれる。
学校生活を楽しんでいる様子が伝わってきて、わたしも安心して過ごせるようになりました。
◆わたしの変化
以前のわたしは、話を聞かなかったわけではないのですが、
「え、そんなん言ったの?」
「それは、こういうことじゃないのかな」
と、つい途中で口をはさんでしまいがちでした。
けれども、まずは否定せずに娘の話を受けとめるようにしてみたら、娘との関係が変わったように思います。
ココロ貯金はわたしにとって、子育ての“拠りどころ” であり“軸”でもありました。
娘にしてあげられることがわからずに、やみくもに心配して自分を責めてばかりだった過去のわたし。
今は、「子どもを優先してあげられない日」があっても「そのあとにどう寄りそってあげるか」が大事だと思えるようになり、穏やかな気持ちで過ごせるようになりました。
◆東京往きの飛行機で
6月。
子育て心理学協会の10周年パーティが、東京で開かれることになりました。
絶対に参加しようとは決めてはいたものの、丸1日娘と離れて過ごすのは本当にひさしぶりです。
やっと学校に行けるようになったのに、また不安定になってしまったらどうしよう。
本当にわたし、何ごともなく行けるんかな。
前日まで、心配で胸がいっぱいでした。
だからこそ、無事に飛行機に乗れたときは感無量。
——こんな日が来るなんて、あの頃は考えられなかったな。
肩の力がふっとぬけて、しばし放心してしまいました。
娘の気がすむまでずっと、つきそってあげてよかった。
本当によかった。
つらかった日々も、みじめで泣きたい夜も、ただ目の前の一日を必死に過ごしたあの頃も——。
すべてが、この瞬間へとつながっていたのだと思えました。
気づくと涙が頬をつたっていました。
あたたかな涙はとめどなく流れ、ひとり静かに祝杯をあげたのです。
お母さんが実践したココロ貯金
・あいさつ+名前呼び
・カンガルーの親子のような触れあい
・子どもに求められるままのつきそい

