vol.9 登校を…

登校しぶりの長男につきそう毎日がはじまった

「いやだ。学校行きたくない」

 柱にしがみつき、泣きさけぶ長男。これはえらいことになった……。

 

 登校しぶりがはじまった日のことはよく覚えています。ギャーギャー泣いている長男の背中を引っぱり玄関から突きとばし、急いで扉をしめて学校まで引きずっていきました。

 それは、小学校に入学してまもなくのこと。お友達との小さなトラブルをきっかけに、登校しぶりと闘うゴールの見えない日々が幕をあけてしまったのです。

 

 当時の日課はつきそい登校。毎朝7時40分には家を出て長男と一緒に登校していました。朝ご飯の片付けもできないまま3歳の次男を起こして抱っこひもに入れ、途中で食べさせるパンとバナナとお茶をリュックに放りこみ、バタバタと家を出ていました。

 

 夜になると「明日行きたくない」がはじまり、朝は泣きわめいて登校を拒否。長男を引きずるようにして歩いていると旗当番のママに挨拶され、恥ずかしさと情けなさでいっぱいになりました。

 やっとのことで学校につくと、今度は「帰らないで」と泣きべそ。教室のうしろに席が用意され、背中に次男、ひざに長男をのせて授業を見学していました。休み時間になると「帰る」と言いだす長男を「もう一時間がんばってみたら?」と励ましながら半日以上学校で過ごす。これがわたしの日常でした。

 

 ポンポンとものが言えない長男は些細なことで傷ついてしまい、途中で帰ることも度々ありました。生まれたときから繊細で、布団に下ろすと起きてしまう子でした。激しいイヤイヤ期、幼稚園では登園しぶり。人見知りで怖がりで、砂場に連れて行けば手に砂がつくのをいやがる……等々、戸惑うことばかり。わたしを困らせるために生まれてきたのではないかと思ってしまったこともあります。

 

 なんでうちの子は他の子のようにできないのだろう。

 なんでこんなに弱い子なのだろう。

 わたしがこんな性格だから?

 

 学校から戻り、汚れたままの朝ご飯のお皿を見ると泣けてきました。うまく子育てできない自分を毎日責めて、朝がくる前に家出してしまいたいと何度も思いました。

【渡辺ひろ子さんのプロフィール】

小学校5年生と1年生の兄弟のお母さん。

幼少のころから繊細な気質だった長男さんへの対応に、悩みながら過ごす。

長男さんが小学校1年のとき、登校しぶりがスタート。

あるとき、たまたま受けた子育て心理学協会のカウンセリングで言われた一言に衝撃を受け、子育て心理学カウンセラー養成講座を受講。

行かせる、休ませる、どちらが正解?

登校しぶりがはじまって以来、ずっと悩んでいたのが「引きずってでも学校に連れて行く」べきか「休ませて見守る」––ということでした。不登校の専門家、スクールカウンセラーさん、脳科学の先生、とさまざまな方に相談しましたが、三者三様、意見がパッカリわかれたのです。

「無理に行かせても意味がありませんよ」という意見もあれば、「つきそって通ってください」という意見もありました。「長男くんは学校にきてしまえば、しっかりできています。泣いてもわめいても、決まったところで別れるようにしてください」とおっしゃる方もいました。

 

 これだと信じられる方針を見いだせないまま一緒に登校しつづけたのは、長男の性格を踏まえてのことです。長男は一つ一つ体験して安心していくタイプに思え、休ませてもうまくいかないような気がしていました。

 とはいえ、本当はつきそい登校がいやでたまりませんでした。「今日は〇〇のところでバイバイするよ」などと目標を設定するものの、その場所で涙をためて立ちつくす長男を放っておけず、結局は学校まで一緒に行く、という不毛なパターンを繰り返していたのです。

 

 進展がないまま2カ月ほど過ぎたころ、東ちひろ先生が主宰される子育て心理学協会のカウンセリングがあったので、受けてみることにしました。そこでカウンセラーさんの一言に、大きな衝撃を受けることとなったのです。

とことんつきあおうと腹を決めた

「お母さんが離れようとすればするほど、お子さんは離れてくれないかもしれません」

 雷に打たれたような衝撃でした。そして、

「腹をくくってつきそった方が近道かもしれません」

 というアドバイスを受けとめ、つきそわなくていいと長男が言うまでは、とことんつきあおうと腹を決めました。また、長男がぐずぐず言う言葉もなるべく否定しないで聴こうと、心がけるようになりました。

 

「明日学校いやだ」

 夜寝るころになるとめそめそと泣きごとがはじまります。

「ぐずぐず言わず楽しいことを考えようよ」

 以前のわたしはこのような助言をしていました。前向きになってほしいとの思いからでしたが、このような言葉はグッとこらえることにしました。そして

「やだよね、あした月曜日だしねぇ」

 と共感し、説得するよりも子どもの気持ちを聴こうと努力しました。

 

 つきそい登校のときの関わり方も変わっていきました。

「今日の給食はカレーだね」

 などと、どうせつきあうのなら楽しくおしゃべり。それから、

「今日はどこまでつきそう?」

 と別れる場所は長男に決めさせることにしました。

 

 長男のペースを尊重するようになると、不思議なことが起こりました。少しずつ、つきそいの距離が短くなっていったのです。「教室まで」が「昇降口」や「校門」になり、ときには「クリーニング屋まででいいよ」などと言いだすこともありました。

 

 小さな好転を糧にして、こちらに行けば出口があると信じ、暗闇を進んでいくような心持ちでした。腹をくくったとはいえ、どうしようもなく気分が落ちこむ日もあります。一度は「クリーニング屋」で別れられたのに、再び「教室まできて」に戻ってしまうこともありました。長男を送った帰り道、家までの長い坂をのぼりながら、抱っこしている次男にしがみついて涙を流した日もありました。

 

 また、同じような立場のママがまわりにいないことも、さみしさの一因だった気がします。

「えらいな。わたしにはとてもできないよ」

 こういった励ましの言葉が

「甘やかし過ぎじゃない? わたしならそんなことはしないけど」

 と言われているような気がしてしまいます。勝手な被害妄想で、

「好きで毎日送っているわけじゃない」

 と孤独を感じたこともありました。

 

 そのような気持ちの浮き沈みはありましたが、少しでも長男が前向きになるようにと、わたしなりにさまざまな工夫をしました。

 これは効いたなと思うココロ貯金は、夜のイチャイチャタイムです。寝る前の約15分、お布団の中でくすぐりあいっこ。キャッキャッと触れあいます。家事も一段落していて、わたしもゆったりとした気持ちで子ども達に向きあえました。ご機嫌で眠りにつくと、そのご機嫌は朝までもちこされます。すっきりと落ち着いた気分で目覚められるようでした。

 また、筆箱の中に毎日ちょっとしたクイズをしこんでおいたこともあります。「学校についたらあけてね」と伝えておき、一人で学校に行けた日の「お楽しみ」にしました。

 

 どうにかこうにか過ごしていくうちに「迎えにはこなくていいよ」「今日は玄関から一人で行ってみようかな」などと言うようになりました。2年生の秋にはお友達と登校できるようになり、些細な出来事でぐずぐず言う機会も減っていきました。

どんな子も、花まる

この春、長男は5年生になりました。お友達がたくさんいて、毎日元気に学校に通っています。

 先日は、宿泊体験学習というお泊りの学校行事がありました。あんなに親のそばを離れなかった子が指折り数えて待ちわびて、3日間の行事を満喫して帰ってきました。宿泊体験のしおりを「宝物にするんだ」と言って大切にしています。

 成長したなあと、感慨深くその姿を眺めていました。3年生、4年生、と彼なりのペースで少しずつ、ゆっくりと。4年生までは、雨の日や6時間授業の日に「遅れて行きたい」などと言ってわたしが送っていく日がありましたが、今はそれもなくなりました。長い目で見て伴走すれば、その子なりの花がひらいていくのですね。

 

 今や長男は、学校では困っている子をサポート、理科のテストではクラスで一人だけ100点を取る偉業も成し遂げ、少々のことではへこたれない情緒の安定した子に育っています。宿題は言われなくても自分でやります。保護者面談では先生に「長男くんの悪いところが見つかりません」とまで言われました。

 

 以前のわたしは怒ったり、嫌味を言ったり。ほめることなど、とてもとてもできませんでした。今は、わたしがしてほしいことをできないからといって叱るかわりに、ほんのちょっぴりでもできたところをほめて、認められるようになりました。

「1時間しか学校にいられなかった」は「1時間は学校にいられた」ということです。

「わたしと一緒でないと学校に行けないダメな子」ではなく、「わたしがつきそえば学校に行ける、がんばっている子」です。

 

「学校に行かせること」よりも、「自己肯定感が高い子に育てること」の方が100倍大事。

 正解がわからず迷っていたわたしに、ちひろ先生だけが、休むか行くかだけではない方法——寄り添いながら背中を押す方法を教えてくださいました。感謝しかありません。

 

 ココロ貯金に出会えたことで、がんばり屋の完璧主義で自分と子どもの首を絞める子育てとはさよならできました。そして、どんなわたしにも花まるをあげよう、子どものどんな姿も受け入れよう認めようと思えるようになりました。

 実を言いますと、この春1年生になった次男にも登校しぶりがあります。まるで4年前のお兄ちゃんをそのままコピーしてしまったかのようです。今でも悩むことはありますが、何をすればよいかがわかっているので子育てにぶれることが少なくなってきました。少し遅れて登校する日があっても「この子は大丈夫」と、どんと構えています。

 

 ココロ貯金はわたしのお守り、道しるべです。

 どんな子も、花まる。どんなわたしでも、花まる。今までのわたしにはそれがありませんでした。長男はそれを教えるために生まれてきてくれたのかなと思います。かなりスパルタな方法でしたが、登校しぶりがなければここには辿りつけませんでした。

 子どもによい関わりをするためには、まずお母さんが認められることがすごく大事だと感じています。ですから、まずはお母さんが毎日あたり前にやっていることを「よくやっていますね」と伝えたい、そして過去のわたしが救われたココロ貯金を広めていきたいと考えています。

お母さんが実践したココロ貯金

・否定も助言もせずに、「共感」して「聴く」

・つきそう距離を子どもに決めさせる

・夜寝る前のイチャイチャタイム

・筆箱の中のお楽しみクイズ

・どんな子も、どんな自分も認めてあげる

vol.8 「息子…

生気を失った息子

ドクン。

鈍い痛みが胸をつらぬきました。学校公開の日、普通ではないわが子の姿を目のあたりにしたのです。教科書もノートも開かず、抜け殻のように座っている息子。生気はまるで感じられません。

授業は穏やかに進んでいきます。息子とわたしだけ、別の空間にいるのだろうか。なすすべはなく、ただ立ち尽くしていました。

 

はじまりは中学2年の春、コロナ禍の休校でした。夜中のゲームとYouTubeで、息子の昼夜は逆転してしまったのです。学校には行ったり休んだり。行かなくてはという気持ちはあっても、朝起きられない日がつづきました。なんとか登校しても抜け殻のような状態なので、当然成績もガタ落ちです。部屋を掃除していると、ばらばらっと回答が書かれていない、ほぼ白紙のテストが出てきました。

 

友達の話もきかない。影すら見えない。心配は深まるばかりでした。

【草薙由香子さんのプロフィール】

中学3年生と小学3年生の兄弟のお母さん。

長男さんが中学2年生の春、コロナ休校が引き金となり昼夜が逆転。

登校と不登校をくり返す。子育て心理学カウンセラー養成講座を受講したのは、長男中2の秋。

息子がこわい

夜ゲームをしながら、炭酸飲料やジャンクフードを食べるからでしょう。もともと食欲のうすい子でしたが、さらに食べなくなりました。栄養士の資格を持ち、食事と睡眠だけはと気を使ってきたわたしには、とても許せる状況ではありませんでした。けれども、うまく伝えられません。

 

反抗期まっただ中。こちらが話しかけても、無言か暴言が返ってくるばかりです。少しでも気に入らないことを言えば、チッと舌打ち。もともと痩せ型の子でしたが、あごが尖って目つきも鋭くなり、誰も寄せつけない表情なのです。すべてが鋭く、「触ってくれるな」という無言のメッセージを発していました。

空手を習っていたので、小柄でも力は強い息子。ちょっとした言い合いになったとき、パンッと払った彼の手がわたしのあごに命中。衝撃にうずくまりました。あごが外れてしまい、全治まで1カ月もかかりました。

 

息子がこわい。

何をしていいのかわからない。

 

同じ空間で過ごす生活がつらく、次第に心が削られていきました。

ココロ貯金ができない!?

一人ではどうにもならずに駆けこんだのが、子育て心理学カウンセラー養成講座でした。ところが、講座を受けた当初は「ココロ貯金ができない」と思ってしまったのです。

息子とは会話がないので、“聴く”なんてとても無理。“触れる”など、もってのほかです。一つだけできそうだったのは、こちらの言葉がけを変えること。まずは、挨拶の前に名前をつけることだけを心がけました。

 

そのうちに、ふと気づきます。

――触れるのはこわいけれど、寝ているときならできるかも。

 

息子がゲームをするリビングに、ふとんを2組ひきました。1組はわたし用。もう1組は、息子が疲れたら横になれるように。

夜、チカチカとゲームの光がちらつく中で、眠りにつきました。目覚めたときに息子が起きていれば、「〇〇(息子の名前)、おはよう。まだ起きているんだね」と声をかけます。

もしも眠っていたら、“触れる”チャンス。頭をなでたり足をさすったり。名前を呼びながら「生まれてきてくれてありがとう」「大好きだよ」と、ふだんは言えないことを伝えます。

 

その他やりやすかったのは、フセンを使ったココロ貯金でした。その頃にはもう、食べてくれれば何でもいいと思えるようになっていたので、好きなジャンクフードにメッセージを書いたフセンを貼り、そっと置いておいておきました。受講生のLINEグループの会話から、ヒントをもらったアイデアです。

 

 コツコツと、できる分だけココロ貯金。すると、不思議なことに息子の表情が和らいでいきました。そして3学期になると、再び学校に通いはじめたのです。雪解け水が流れるように、止まっていた時間がいっきに動き出しました。

気づけなかった息子のやさしさ

中学3年生になった現在は、無遅刻・無欠席。合唱祭の練習にもしっかり出席し、修学旅行にも行けました。宿題もきちんとこなし、毎日楽しそうに学校に通っています。友達の話もたくさん出てきます。成績は2段階アップしました。

 

「2年のときは、ほんとにつらかった」

あるとき、ぽつりと話してくれました。担任の先生からも、当時のクラスでいじめがあったことを聞かされました。息子だけではなく、つらい思いをした子が何人もいたそうです。息子はどこにも行く場所がなく、わたしに気づいてほしくてあのような態度をとっていたのかなと、今になって思います。

 

つい先日、二人で学校の廊下を歩いていたときのこと。担任ではない生徒指導の先生がさっと近づいてきて、こんな言葉をかけてくださいました。

「この子は、本当に心根のやさしい子なんですよ」

 

 誕生日が近づいた息子にプレゼントは何がよいかとたずねると、

「コロナもあって、食事や旅行に行けなかったよね。だから、家族やおじいちゃん、おばあちゃんと旅行に行きたい」

 という答えが返ってきました。

 

――ああ、この子はお友達や先生にも、こんな感じで関わっているんだな。

 生徒指導の先生に言われた「心根がやさしい」という言葉が、ふっと浮かびました。ココロ貯金を学ばなければ、息子のやさしさに気づけなかったかもしれません。

15年目のトリセツ

思えば幼い頃から敏感で、他人が争っているのを見るのが苦手な性格でした。幼稚園に行くのがイヤで電柱にしがみついて泣きわめいていても、到着するとわたしにピタッとくっつきながらも涙は見せず、先生を困らせることはしないのでした。

 

 息子と話ができるようになってわかったのは、「どっちでもいい」とか「お母さんが決めて」と言うときは、「イヤ」なのだということ。本人が本当にやりたいときは「うん」と素直に肯定するし、すぐに行動にうつします。人の気持ちに敏感だからこそ、誘導したいわたしの思いを察して、ぶっきらぼうな態度になっていたのです。

 

――ずっと息子の気持ちがわからないと思ってきたけれど、実はわかりやすかったんだなあ。

 

 15年かけてやっと、霧が晴れてきたような気持ちです。

 「困らせることしかしない」「怒らせることしかしない」と思っていた時期は、この状況をなんとかしたいと願うばかり。学校で何があるのか、息子が何を感じているのかを思いやれてはいなかったのだと反省しました。

 

ココロ貯金を学び、うまくいかないときは「なんでそういう行動をとるのかな」と、やさしくされたときは「何がよかったのかな」と考えるようになりました。すると、以前より息子のことがわかるようになったのです。

困らせたいわけではなく、ちゃんと理由があること。ある意味では真逆、わかってほしくてやってしまうこともあるのだと、気づくことができました。

どんな子にも効く魔法

長男だけではありません。ココロ貯金がどんな子にも効くので、驚いてしまいます。

 

わたしは小学校で、担任の先生だけではお世話しきれない子を支援する仕事をしています。イヤだと思ったら岩のように動かない子や、すぐに教室から出ていってしまう子が2~3人いるクラスがありました。

はじめは大変でしたが、どんな子にも平等にココロ貯金をすることだけを心がけました。すると、それぞれのよい部分がぐんぐん伸びて、みるみる楽になっていったのです。

 

話すことが好きな子には、“聴く”ココロ貯金。興味がありそうなことをリサーチして、こちらからは話さずに「こんなのあるの?」と聞いてみる。すると喜んで説明してくれます。

“触れる”についても発見がありました。

子どもがやりたくないときは無理に動かすべきではないという考え方がありますが、一概には言えないということです。「一人にはできないから、とりあえず鉄棒のところまで行こう?」などときちんと話したあとに抱きかかえると、何の抵抗もなく軽々と運べます。

「〇〇まで連れていって」とゲームのキャラクターになりきって頼むと、喜んで歩きだすこともあります。

 

話を聴いたり、触れあったり。はじめは心を開いてくれなかった子たちが素直になってくれるのが、本当にうれしく、やりがいを感じます。何かと遅れがちな子達に文句を言っていた子もいましたが、だんだんと協力的になり、クラスの絆が強まったような気がしています。

 

ASDとADHDの特性がある次男にも、ココロ貯金は効きました。遊びのルールを守れず、切り替えが苦手な次男。うまくいかないと自分でルールを作ってしまうので、学校での集団生活やお友達との関係を心配していたのです。

しかし、今ではすっかり情緒が落ち着きました。ルールも守れるようになり、ゲーム中でも「ごはんだよ」と声をかけるとスッと切り替えます。いつもニコニコと楽しそう。まわりの方に愛されて、足りない部分はみなさんに助けてもらっています。

 

ココロ貯金って、魔法なのかもしれない。

少なくとも、わたしにとっては魔法でした。独りぼっちで闘っていた息子と過去の自分を「大丈夫だよ」と、抱きしめてあげたい気持ちです。

お母さんが実践したココロ貯金

・名前を呼んで挨拶

・好きな食べものにメッセージつきのフセン

・「大好きだよ」と伝えながら、寝ている子に“触れる”

・相手が興味のあることについて“聴く”

・しっかり説明したあとに抱きかかえて移動

・子どもの好きなキャラクターを演じて会話

vol.7 不登校…

コロナ禍ではじまった不登校

「なんで義務教育なんてあるんだろう」

 

息子に登校しぶりの兆候が出はじめたのは、コロナが蔓延し、学校が分散登校になった頃でした。社会全体に不安感が広がっていたあの頃。具体的なきっかけはなく、ただ突然、本人のテンションが急降下していったのです。

「中学にも進みたくない」

「部活は帰宅部がいい」

息子の口から出てくるのは、ネガティブな言葉ばかり。

 

分散登校が終わって通常日課がはじまると登校しぶりに拍車がかかり、夏休み前には少し学校をお休みしました。夏休み明けはいい感じでスタートできたのですが、しばらくすると学校に全く行かなくなってしまいました。

【お母さんのプロフィール】

中学2年生の男の子のお母さん。

小学5年生で登校しぶりがはじまり、その後不登校に。

子育て心理学カウンセラー養成講座を受講したのは、長男が5年生の12月。

「見守る」って何?

子どもが楽しく過ごせていないと、親の気持ちも晴れません。友人と話していても頭のどこかに息子のことがあり、心から笑えない日々がつづきました。

 

どうにか息子にやる気をおこさせたいと、つい小言を言ってしまう。すると息子が反抗的な態度をとる。「その態度はないでしょう」とこちらも注意したくなる。

悪循環でした。好転するようにと心をくだいても、息子にはうまく伝わりません。しまいには「何も聞きたくない」と、布団をかぶって丸まってしまうことも日常茶飯事。

 

子どもが不登校になったときの教えとして

「親の考えを、子どもに押し付けるのは良くない」

だとか、

「子どもを変えようとする前に、自分が変わりましょう」

などという言葉をよく耳にします。では、家にいる母親は一体何をしたらよいのでしょう。学校に行かなくなった子どもがそばにいるのに、ただ放っておけというのでしょうか。

 

「私の何がいけないの? “見守る”ってどういうこと?」

社会から責められているような気がして、泣き叫びたい気持ちでした。

わたしにも、できること

子育て心理学カウンセラー養成講座の受講を決めたのは、孤立無援だったから。事態は悪化するばかりで、ひとりでは解決できる気がしなかったのです。

 

まず救われたのは、ちひろ先生が

「どうにかして学校に行かせたいと、親が思うのはあたりまえですよ」

と認めてくださったこと。

「普通、普通」

笑いとばしてくださって、本当に心が軽くなりました。

 

そして、「見守る」期間に何をするのか、具体的にできることがあるとわかったのが、一番の収穫でした。

「忙しくて話を聴けないときも、相槌だけは大きくうちましょう」

 ものすごく、実践的なアドバイスですよね。

ゆっくりコツコツ

以前から息子の話を聴くようには心がけていたのですが、「相槌」までは気がまわりませんでした。講座で習ったとおりに、「うんうん」「なるほど」とうなずきながら聴くと、息子に伝わるように感じました。

他にも、名前を呼んだり、肩や腕に触れたり、小さな工夫を心がけます。息子がどんな状態でも「ココロ貯金をためる」という目標ができ、いつしかわたしの支柱が作られていきました。

 

ただ、少ししんどかったのは、同期生のお子さんに比べてココロ貯金の効果が表れるのが遅かったこと。すぐに効果が出る子と、なかなか出ない子がいます。ゼロからイチに到達するまでの過程は、すごく長く感じました。  

それでも、「その調子、その調子」とちひろ先生に励まされ、淡々とコツコツとがんばることができました。

3年後

あれから3年。息子は中学2年生になり、休むことなく学校に通っています。コツコツとつづけたココロ貯金が、自己肯定感を育てたのでしょう。ひとたび小さな花が咲くと、効果は加速していくようです。

 

6年生では渋々ながらも学校に行くようになり、中学入学の頃には登校しぶりは消えていました。今では親も子も、あの頃の記憶が薄れつつあります。部活動はソフトテニス部。自由参加の朝練にも、楽しそうに通っています。

不登校になって、当時習っていた野球やスイミングは辞めてしまいました。中学で何かはじめてくれたらと願っていたので、うれしい限りです。

 

学校に来ていない子が何人かいるようなので、

「声をかけてあげたら?」

と言ってみたら、

「行きたくなければ、無理して行かなくてもいいんだよ」

と、穏やかな応えが返ってきました。

 

今は思春期まっただ中なのですが、5年生のときの方が扱いづらかった気がします。何か言うと鋭い言葉が返ってきて、触れるだけでやけどしそうだったあの頃。

ココロ貯金を学べて本当によかったと、感謝の気持ちでいっぱいです。

まあ、いいか

息子が不登校になり立ち尽くしていたわたしは、ココロ貯金に救われました。

 

バタバタと忙しい日々の中でもできること。ココロ貯金を学んで細かいことが気にならなくなり、ガミガミ言わなくなりました。合言葉は、「まあ、いっか」。

 

「3年前よりも、表情が柔らかくなられましたね」

久しぶりにお会いしたちひろ先生にそう言われ、なんだかくすぐったく、誇らしく、うれしい気持ちになったのです。

お母さんが実践したココロ貯金

・相槌をうちながら「聴く」

・言葉がけの際に名前を呼ぶ

・肩や腕に触れる

・なかなか効果が表れなくても、コツコツ&淡々とココロ貯金

vol.6 兄弟3…

上と下の登校しぶり、母の救いは君だった

わたしから見た次男は、ごく普通の元気な男の子。積極的で友達も多く、学校生活を楽しんでいました。小学6年生になると、応援団長に立候補。生活態度や課題などすべての条件をクリアして、他の候補者をおさえ団長の座を勝ち取るほど、やると決めたら力を出せる子でした。

 

小学生のときから登校をしぶり、行ったり休んだりの長男と三男に挟まれながら、

「俺は学校行くから」

 とマイペース。学校に行かないのは“カッコ悪い”と感じているフシもありました。

「母として立っていられるのは、あなたがいてくれるから」という感覚で、わたしにとって唯一の“救いの子”だったのです。

【神代順子さんのプロフィール】

18歳、16歳、14歳の3人兄弟のお母さん。

それぞれ全く違うタイプの不登校に遭遇する。

ASD(自閉症スペクトラム)の傾向がある長男さんのお話は、『不登校の教科書』(東ちひろ著)に掲載中。

本コラムは、次男さんのストーリーを中心にお届け。お母さんがココロ貯金を学んだのは、長男12歳、次男10歳の頃。

学校には行きません

次男は順調に、中学に進学しました。サッカー部の練習に励んで、土日は試合三昧。母の理想とする学校生活を送ってくれる、“希望の星”だったのです。

 

 ところが、中1の夏休み明け。

「俺、もう学校行かないから」

 はっきりと言い切った次男の宣言に、膝からくずれ落ちました。青天のへきれき、寝耳に水です。

 もともと、意思の強い子。長男や三男のような、行ったり行かなかったりの“登校しぶり”という段階は踏まず、“決定事項”として「学校には行かない」と言い渡されました。

 

 まだ何か体験させてくれるの?

わたしは神さまを呪いました。「完全不登校」は次男がはじめてでした。

 

一番つらかったのは、「今日は休みます」という学校への連絡です。行かないに決まっているのに毎日かかさず連絡が必要で、電話しないと向こうからかかってきます。ブーッブーッと揺れる携帯に出るのがイヤで、ぼうっと眺めながら放置しつづけたこともありました。

 

やがて秋が来て冬になり、学校に行かないまま、次男の中1の課程は終了しました。暦が変わり、2年生。心を新たに登校してくれるのではとないかと期待しましたが、時間だけがむなしく過ぎていきました。

 

友達に囲まれて、キラキラと輝いていた次男。ここ一番でがんばれる、かしこい次男。一体どうして……?

 

長男は泣くことで、三男は怒りで感情を表現します。ところが次男は、自分の中に秘めるのです。怒るときは、静かに怒る。何を考えているのか一番わからないのが次男で、触れられない怖さがありました。

「連絡しません」宣言と、次男の告白

2年生で担任になった先生は、男の子4人のお母さんで話しやすい雰囲気の方でした。わたしは思いきって相談してみました。

「毎日つらくて仕方がありません。申し訳ないのですが、出欠の連絡をやめさせていただけませんか」

行くときも行かないときも連絡はしません。自分の思いを貫きとおす彼なので、行くことはまずないと思います、と。

 すると、先生は応えてくださいました。

「わかりました。学校につれてくるのはお母さんなので、お母さんがつぶれたら意味ないですから」

本当に感謝しかありません。

日々のストレスが減って、わたしの覚悟も決まりました。

 

とにかく待とう。

本人が動く気にならないと無理なのだ。長男は小細工に乗ってくれることもあったけれど、次男は違う。ヘタに策を弄しても、すぐにバレてしまうだろう。

 

次男へのココロ貯金の大部分は、「待つ」ことだった気がします。そして、もう一つは「聴く」ことでした。こちらが話したいときではなくて、次男から話しかけてきたときに、しっかりと聴く。ここがチャンスだと、すべてを拾うつもりで、「そうかそうか~」とひたすら聴きました。

すると少しずつ次男の口数が増え、感じたことを話してくれるようになりました。そして、中学2年生も終わりに近づいたある日、ポツリポツリと話しはじめたのです。

 

「部活でさ」

「先輩とさ」

「ケンカしてさ」

 

もしかしたらこれが、学校に行かないと決めたきっかけだったのかな。

青天のへきれきだった不登校宣言から半年近く。ようやく “話せる相手”として認められたのだと、感慨深い気持ちでした。

“ドライブスルー”で登校

中学に通っていない次男でしたが、先々は高校に行きたいという気持ちをもっていました。彼の思いを知っていたので、機嫌がよいときを見計らい「高校に進むのなら、登校日数や出席率も関係してくるのかもね」などと伝えていました。
 ちょうど次男が心を開きはじめた頃、同じように学校を休んでいる子が夕方に登校しているという話を聞きました。

「みんなの授業が終わったあとに、学校に行ってもいいらしいよ」
 と伝えると
「いや、行かないし」
 と一蹴されて、ですよねと引き下がる。
「でも高校に進むのなら、登校日数もねえ……」
“あなたには言っていませんよ”という独り言の体で、あさっての方向に言葉を投げる。

何度かそんな会話を繰り返したある日、一緒に買いものに行く用事ができました。
「TUTAYAに行くついでに、学校に寄ってみない?」
 気軽な調子で声をかけると、
「ああ、じゃあ」
 との返事。たまたま波長が合ったのかもしれません。
これが“ドライブスルー登校”の始まりでした。

学校に着いたものの、
「降りねえから」
と言われ、そうだよね、来たことだけ伝えてくるね、とわたし。
 先生にご挨拶すると、せっかくだから顔を見に行こうかなと、車まで来てくださいました。窓ガラス越しに呼びかけられ、うつむく次男。決して顔を上げない彼に、先生が明るく言いました。
「でも、来てくれたからね。またね」
 1分ほどの短いやりとりでした。

 それからは買いものがあるたびに、学校に寄らないかと声をかけました。車を降りないならいいよと言うので、通うだけのドライブスルー登校。先生へのご挨拶は、わたし独りで行きます。

「親子関係がくずれるのはいやなので、無理には連れて来ません」
先生には、息子の信頼をこわしたくない旨を伝えてありました。もう一つお願いしていたのは、「声がけして息子がいやだと言ったら、粘らずにスッと引いてください」ということ。それが何度も続けば「先生に悪いから、今日は行ってやるか」という日が必ずくる。申し訳ないなと感じる心はあるやさしい子なのでと、次男のトリセツも伝えていました。策を弄して「行けばいいって言ったじゃん。なんで顔出し勧めるの?」とならないようにだけ、心を配っていました。

 先生とのタッグが功を奏したのか、徐々に教室が近くなっていきました。
「今日は調子良さそうかな? 教室に行ってみる?」
「え~、しょうがないな」
 教室に足が向く機会が増え、少しだけ学習していけるようになりました。
「勉強したいなら、夕方でよければつきあうよ」
 明るく微笑む先生との勉強が、だんだんと楽しくなっていったようです。5分、10分、15分、30分と学習時間が延びていき、そのうち自転車に乗って一人で学校に行くようになりました。“ドライブスルー登校”は、いつの頃からかしっかりとした“夕方登校”に変わっていました。

「一度テストも受けてみる?」
 先生に勧められたテストは思った以上に出来が悪く、これはまずいと本人が気づいたようでした。先生との勉強に加え、タブレット教材にも一人で取り組むようになりました。タブレットの教材は、間違ってもA判定をとるまでくり返しできる仕組みになっています。生来の意思の強さを発揮した次男は、猛勉強。数学はリアルタイムで同級生が学習している課程まで、追いつくことができました。
とはいっても、努力している姿は見せません。「決してのぞかないでください」という鶴の恩返しのように、見えないところでがんばるタイプ。知らないうちに、数学が大好きになっていました。

通信制の高校へ

次男は現在16歳。通信制サポート校の2年生で、明日からは楽しい夏休みです。

 

今通っている学校との出会いは、中学3年生の秋でした。次男の進路を考えなければという思いを頭のどこかに置きながら、パラパラと地方紙をめくっていると、オープンキャンパスの案内を見つけました。

通信制もありなのかも!

長男の卒業時に比べ、わたしの頭も柔軟になっていました

 

「こんな学校があるよ。見学に行ってみない?」

「行ってみようかな」

 

当日は、保護者のための説明会の間、子どもは先輩の話しを聴いたり、音楽に特化したカリキュラムの体験レッスンを受けたり。体験を通して、先生と生徒の距離感やコミュニケーションの雰囲気を心地よいと感じたようでした。

「どうだった?」

「なんかいいかも、この学校」

 

 ここからの流れはとてもスムーズ。“何となくいい”と感じたフィーリングに従って、翌週の文化祭も見たいという次男につきあいました。

「俺、ここに行きたい」

まだ一校見学しただけだよと思いましたが、通うのは次男です。じゃあ決めようかと11月の終わりに試験を受け、12月には合格。早々に進路が決まったため、あとは気楽なものでした。

進路決定後も先生との補習は途切れることはなく、卒業するまでつづきました。

三人三様

ここで、わが家の3兄弟の近況を整理してみます。

・長男:通信制高校1年生

・次男:通信制サポート校2年生

・三男:中学3年生(絶賛不登校中)

 

自閉症スペクトラムの傾向がある長男は、最初に入った公立高校は1年弱で自主退学。家事手伝い、夫の仕事のサポートを経て通信制高校に入りなおしたので、学年が次男と逆転しています。

最初の高校に馴染めず、「俺は死んだほうがいい」とまで言っていた彼は今、自ら稼いだお金で授業料を払い、月3回の程よいペースで通学しながら、学ぶことを楽しんでいます(※長男の話は『不登校の教科書』(東ちひろ著)に掲載)。

 

次男も学校生活を満喫中。同じ通信制でも“サポート校”は毎日登校するため、友達を作りやすいようです。学校帰りにみんなでカラオケに行くなど、明るく人気者の彼に戻っています。テスト前には友達のために解説ノートを作るなど、この子は余裕があるのだなあと感じさせてくれます。高2になると中だるみで出席率が落ちましたが、自ら立て直し、夏休みの補習を回避しました。

 

中学3年生の三男坊は学校に行っていません。のびのびと不登校ライフを楽しみ、夕方には大好きな支援級の先生に会いに行きます。

忘れられないのは、彼が小6だったときの運動会。「観に来たら?」と先生に誘われ、同じく不登校のお友達と見学することになりました。誰にも見つからないすみっこで、ひっそり観ようと考えていた我々親は、彼らが確保した場所に絶句しました。なんと、退場門の真ン前だったのです。

「おおっ、速い、速い」

 談笑しながらくつろぐ彼らは、不登校を恥じてはいませんでした。

 

 不登校って悪いことじゃないよね。学校が合わない、ただそれだけのことなんだ。

 

大きな空の下で子ども達に教えられ、一つ成長できた気がしました。

 

兄弟3人の不登校に関わってきた、これまでの子育て。長いような短いような歳月でしたが、わたしの腕はずいぶんと上がりました。三男のときなどは慣れたもの。真っ先に「わが家は出欠連絡しないシステムでやらせていただいております」とお伝えし、穏やかに子どもの成長を見守っています。

 

三男の髪の毛は今、ちょうど甲冑のような長さです。髪を伸ばして顔を隠し、まさに鎧替わりなのでしょう。テンションが上がったときには、少しだけ顔がのぞきます。

面白いことに、修学旅行が近づくにつれ前髪が割れてきて、少しずつ表情が見えるようになりました。そして、ついには自分で髪をかき上げて修学旅行に参加、無事に戻ってきました。

 

まったく違うルートで成長を見せてくれた兄たちのように、三男も自分らしく歩むのでしょう。あの鎧も、いつかずっと外していられる日がくるだろうと、今は信じられるのです。

 

わたしにとってのココロ貯金は、「自分を正す術」でした。迷ったとき、ブレそうなときに戻る正しい場所。これからも無理なく楽しみながら、個性豊かな3人の成長を見守っていくつもりです。

お母さんが実践したココロ貯金

・本人が動き出すまで、信じて待つ

・話したいときではなくて、子どもに話しかけられたときにしっかりと「聴く」

・子どもの意思を尊重し、いやだと言ったらスッと引く

・子どものトリセツを伝え、先生と一緒にココロ貯金をする

・「動くのは子ども」だからと、子どものフィーリングを信じる

vol.52年間ゲ…

不登校と睡眠障害

「“睡眠酩酊(めいてい)”に近い症状ですね」

冷たく響くお医者さまの声。聞きなれない診断名に恐怖を感じたあの日のことは、よく覚えています。

中学2年生で学校に通えなくなった息子は、お昼過ぎに起きてきて、夜はゲーム三昧。完全に昼夜が逆転していました。そしてそのうちに、12時間以上眠っても起きてこない日が続くようになったのです。冗談ではなく、息子の耳元で空き缶をガンガン鳴らしたこともありました。そこまでしても、まったく反応がなかったのです。

「治ったら本が書けるよ」

という先生の軽口を笑う気になれず、ただ暗い気持ちで聞いていました。

 

幼い頃から息子は、育てにくいと感じる子でした。赤ちゃんの頃は寝つきが悪く、1時間おきに授乳。5歳まで乳離れしなかった記憶があります。小学校に入っても、ちょこちょこと問題が起きました。はっきりものを言うため、先生とぶつかることも多かったように思います。忘れられない事件は、小学校3年生のときに「お友達のものをとった」と担任の先生から言われたこと。後から濡れ衣だったとわかったのですが、誤解されやすいところがあったのかもしれません。

小1のときに夫が単身赴任してから4年間、子育てはわたし一人の肩にかかっていました。しっかり育てなければと気負っていたので、厳しく接してきたと思います。

 

「反抗的ではないが、学習意欲が薄い」

中1の2学期の三者面談では、厳しい表情で告げられました。先生の前でもゲームに熱中している。もっと授業に集中するようにと、きつくお叱りを受けました。親から見ても正しいご指摘でしたが、息子はその場でポロポロと涙を流したのです。そしてその翌日、「学校をやめる」と言いだしました。振り返ると、これが “不登校”を意識した最初の出来事でした。

 

次のきっかけは3学期。インフルエンザと胃腸炎が重なり2週間ほど休んだのをきっかけに、登校をしぶるようになりました。「中2になったら心を入れかえる」という言葉を信じて期待していましたが、今度は登校する時間がくると腹痛におそわれるようになったのです。

 

中学校へは電車で通っていました。おなかが痛くてその電車に乗れません。せっかく乗っても途中で降りてしまったり、最寄り駅に着いたのに戻ってきたり。トイレの中からSOSの電話をかけてくることもありました。まるで心を代弁するかのように、体が学校を拒絶しはじめたのです。

 

実は息子は小学生のときに胆のうの手術をしており、腹痛をおこしやすいと言われていました。ですから仕方のないこと。症状さえ落ち着けば、学校にも行けるようになると信じていました。けれども、腹痛は治まりません。中2の1学期後半からは10日行ったか行かないか、中3の担任の先生には一度も会わないまま、中学生活は過ぎていきました。

 

家ではこれといってやることがなく、ゲームばかりしています。海外の方に混ざって夜中にする(息子は幼稚園に入る前からインターナショナルスクールで4年間学んだため、英語はある程度話せます)ので、午前中は起きてきません。そのうち昼夜が逆転し、小児科の先生に睡眠障害の寮に入ることを勧められました。

寮から戻ってきて生活リズムが回復したものの、今度ははじめにお話ししたような過眠の症状が出はじめたのです。

 

ココロ貯金に出会ったのは、そのような時期でした。息子が「いらない」と言うので、病院にも通わなくなっていました。悪い方へ悪い方へと転がっていく気がして、ココロ貯金のカウンセリングでも顔をあげて話せません。空気が重い家の中で、泣き暮らす日々でした。

【お母さんのプロフィール】

高2男子と小5女子の2児のお母さん。

中1で登校をしぶりはじめた長男さんは、中2で登校時におなかが痛むようになり不登校に。

オンラインゲームにはまり、約2年間ほぼ自室で過ごす。昼夜逆転、睡眠酩酊などを経験。

ココロ貯金に出会ったのは、長男さんが“睡眠酩酊”と診断された中2の頃。

一粒の変化

その頃のわたしは、真っ暗なトンネルの中でもがいていました。

「学校とつながれるのはわたししかいない」

「学校に戻りさえすれば大丈夫」

自分に言い聞かせながら、先生やカウンセラーさんに相談するため足しげく学校に通ったものです。

けれどもココロ貯金を学び、「学校に戻ることがゴールではない」という、大切なことに気づかせてもらったのです。

 

「聴く」「触れる」「認める」という手ほどきを受けて、とにかくココロ貯金をためていくことにしました。

 

親子関係は悪いわけではありませんでしたが、中学生という多感な年頃です。引け目もあったようで、息子はほとんど2階の自室から出てきません。

少ない接点でどうやって、貯金をためるのか。すれ違いざまに触れたり、寝起きでぼうっとしているところを狙って頭をわしゃわしゃと触ったり、「おはよう」と背中をさすり「昨日は眠れた?」とたずねたり。

家族4人が顔を合わせるのは、彼が起きている夕食のときだけ。それ以外はノックして顔を見に行く「生存確認」がやっとでした。「○○、お茶飲んでね」と、名前を呼んでからお茶を渡すなど、ささやかなココロ貯金を試していました。

 

息子はチャットしながらゲームをしていて、時折楽しそうな声が聞こえてきます。話しをしている分ウツウツとはしないのでは、とその点だけは心配しませんでした。ココロ貯金を学んだことで、「声がするから生きてるね~」と、比較的ゆったりとした気持ちで見守れるようになりました。

 

正直、変化は感じづらい状態でしたが、週一で手伝いにきてくれる両親が「変わったね」と言うようになりました。

「帰ろうとしたら『気をつけて帰ってね』と2階から降りてきてくれたよ」

確かに大人を信じていないような目つきが影をひそめ、表情が明るくなったような気がしました。ただ、一滴のしずくが大地に落ちて所在がわからなくなるような、ささやかな変化でした。

崖っぷちの決断

中高一貫の学校に通っていた息子は、形式的な進級テストを受けて高校へ進むことができました。けれども、がんばれたのは最初の1カ月だけ。期末テストはほとんど受けられませんでした。高校は中学とは違い、単位が足らない場合は留年しなければなりません。1学期を終えた時点でリーチがかかり、あと1回休んだらアウトだよという教科もありました。

 

運命のテストの3日前。深夜、息子が部屋にやってきました。

「ママ、ぼく学校を変わることにしたよ」

開口一番、はっきりとした口調で宣言しました。

「じゃあ、今から話しを聴こうか」

驚きつつも、平静を装います。聞けば、オンラインゲームで知りあったお友達が通信制高校に行くのだとのこと。それを聞いて息子も興味をもったのだそうです。しかし、そんな会話をしていたとは。毎晩ゲームに興じながらも、彼らなりに前途を考えていたのです。

 

「とりあえず、高校は卒業することにしたよ」

「ぼくもネットで調べたんだけど、わからないことがたくさんある。ママも調べてくれない?」

“決定事項”として語られる進路変更にポカンとしながら、

「オッケー、わかったよ」

と応えました。

 

従来わたしは、柔軟に動けないタイプの人間でした。転校させるのは手間がかかりますし、「また嫌だと言いだすのでは」という不安もあります。嫌だと思ったら絶対にしない息子の頑固さは、身に染みていました。けれども、「子どもに寄り添う」ことや「傾聴」を講座で教えていただいたおかげで、スッと受けとめられたのだと思います。

夫は納得していませんでしたが、「本人が言いだしたことなので、いいと思うよ」と説きふせ、夜が明けるとその日のうちに学校見学に行きました。後にもう一校見学し、息子に寄り添ってもらえる気がした後者の学校を転校先に決めました。

君ならできる!

案の定、はじめの1カ月は「思っていたような学校じゃなかった」と落ちこんでいました。大勢で授業を受ける形ではなく、個人指導塾のような形態にとまどったようです。友達の作り方もわからず、「不安だ」「違うところに行きたい」など、ネガティブな言葉ばかりこぼしていました。

 

けれども、サポート上手の先生方に救われました。どの先生もカウンセリングを学ばれているのではと思うほど、生徒を上手にのせて自己肯定感を上げてくださるのです。

息子の唯一の得意科目は英語です。英検の準1級を受け、見事合格できました。すると先生に、「英検対策したい子に教えてあげて」と頼まれ、友達の勉強をみるようになったのです。先生に頼られて大きな自信を得たのでしょう。週3~4日登校すればよいはずなのに、授業がない日まで学校に行くこともあります。そして、

「2年間ゲームしていた時間はムダじゃなかった。英語力も身についた。ぼくは悪いことをしていたわけじゃないよね」

などと言うようになりました。日頃から「あなたのその時間を無駄だと思ったことはないよ」と伝えていましたが、確かな実感とともに届いたような気がします。

 

また、とにもかくにも「大学に行くこと」だけを目標にしてきた息子に、

「もっと上を目指してもいいよ」

「君だったらここもがんばれそうだよ」

と前向きな言葉をかけてくださいました。おかげで息子は、「ぼくは何だってできる」という無敵モードに入っています。

 

先日は英検1級を受けて落ちましたが、「次は絶対受かる!」と言って、翌日から猛勉強をはじめました。以前の息子だったら心が折れていたと思います。

 

先生方は、生徒一人一人に合わせてカリキュラムを組んでくださいます。漢字が苦手な息子には、オリジナルの学習プリントが用意されました。部首の同じ漢字を集め、視覚的に記憶に定着されるよう工夫されたプリントです。「ぼくは満点をとらなければならない」と、息子は手厚い支援に結果で応えようとしています。

 

大学入試は教科を絞って受けられるところが魅力だと思います。息子は、英語・国語・社会・小論文の4科目で受験する予定です。得意な科目に特化して学べばよく、学習ブランクがある子にも勝機はあるのです。

また通信制の学校だと成績がよくつくことも多いので、よい学校を受けやすいという利点もあります。息子の通う通信制「サポート校」は受験にも力をいれていて、各科目のエキスパートの先生が一対一で教えてくださいます。政治経済の先生の話は「すごく頭に入る」と喜んでいますし、「古典も意外といける」のだそうです。何よりも、勉強を楽しんでいる息子の姿を見られることが、幸せだなあと思います。

息子の今

通信制高校に転校するまでは、精神は安定していても学校に向かう気力はまだないように見えていました。息子の心は満たされているのか、正直よくわからない状態だったのです。

ところが環境が整ったとたん、

「この変わりようは何!?」

と親が面食らうほど。息子は変わっていきました。

 

最近の彼の様子をお伝えします。

「ゲームは飽きた」そうで、夜通しするのは新たなイベントがあるときくらい。計画的に遊び、たまに徹夜することがあっても数日で生活リズムを戻しています。起きるやいなやデスクトップに向かい、椅子の皮が破けるほどゲーム漬けだった日々がウソのようです。真剣に勉強して、登校に疲れたときはオンラインの授業を受けています。

 

昔は1週間入浴しないこともザラだったのに、毎日お風呂に入り、眼鏡をコンタクトに替えてパーマをかけました。まるで大学生のように自由に暮らしています。アルバイトをはじめるというので「受験勉強しながら?」とたずねると、「時間はあるから大丈夫」だと言われました。

 

子どもの頃から抱えていた “生きづらさ”のようなものは、徐々に薄れているようです。

「ぼくはこういうのが苦手だから、君がやってくれたら代わりにこれをやるよ」

というように、自分の弱点を認め上手に伝えられるようになりました。

あれだけ悩まされた腹痛は、いつの間にか気にならなくなっています。

 

「もう心配ありませんね」

人に言われて、今心配していることは何だろうと考えました。

 

「来年は車の免許をとりたい」というので事故に遭わないかと心配です。

「遠方の大学行きたい」というので、そうなったらひとりで生活できるのかも気がかりです。

あら……? なんてうれしい心配事なのでしょう!

 

17年間がむしゃらにしてきた子育て。

「子育てが楽しみ」だと、はじめて言えるようになりました。息子の笑顔は、わたしを幸せにしてくれます。

厳しく育てた小学生の頃を振り返り、

「あのときはごめんね。お母さん、きつかったよね」

と謝ると、

「気にしなくていいよ。ぼく、言うこときかなかったものね」

という答えが返ってきました。

 

そして、こんな言葉をかけてくれたのです。

「ぼくは、パパとママにすごく感謝しているんだよ。この恩は絶対に返すからね」

 

息子の中の貯金箱は、特大サイズ。

ココロ貯金はたまっているのかしら? と、わからない時期もありました。

でも静かに着実に、彼の心は2階の小さな自室から、外に向かっていたのです。

お母さんが実践したココロ貯金

・すれ違いざまや寝起きを狙って「触れる」

・お茶を届けながら、「名前を呼びかけ」生存確認

・ココロ貯金をためながら見守り、息子からのアクションには柔軟に対応

「ママ、ぼく学校を変わることにしたよ」「オッケー、わかったよ」

・「あなたのその時間を無駄だと思ったことはないよ」と伝える

vol.4「逃げ出…

登校できない次女と笑わない長女

子育てから逃げたい。

コロナ禍の休校をきっかけに、学校に行けなくなった小4の次女。いつも目深にフードをかぶり、顔を隠していました。顔色がわるく、うつむきがち。かろうじて放課後登校だけはしている状態でした。

今のままでもいいの? 他にできることはないのだろうか?

わたしには、不安と迷いしかありませんでした。

そんな次女でもまだよい方。6年生の長女はわたしにとって、理解しがたい宇宙人のような存在だったのです。「わたしだったらこうする」と思うことはまずしません。こちらが一生懸命尽くしていることが伝わっていないような言動。笑わない、しゃべらない、字までも小さくて薄い。目が開いているのかわからないような表情。意欲や覇気といった子どもらしい活力が、まるで見つけられないのです。

わたしはきっと、この子のことを好きになれない。

親がもってはいけない感情に支配されている自分を悲しく思いました。子育てを楽しんでいるママさんを見かけると、みじめな気持ちになります。逃げてしまいたいのに、逃げ場はどこにもないのでした。

【塚本有香さんのプロフィール】

中学2年生と小学6年生の姉妹と、3歳の男の子のお母さん。

ADHDとLD(学習障害)の長女さん、不登校の次女さんの子育てに悩む。

姉妹が6年生・4年生のときに子育て心理学カウンセラー養成講座を受講。

「なまけていた」わけではなかった

長女には、幼少の頃から育てにくさを感じてきました。保育園でも小学校でも発達について相談する機会はあったのですが、そのたびに「大丈夫ですよ」と言われます。仕事で多忙だったこともあり、それ以上深く考えることはありませんでした。

きっかけは、コロナ禍での自宅学習。勉強をみていると、1年生の漢字がわからないのです。さすがに何かがおかしいと気づき検査を受けたところ、ADHD(注意欠如・多動症)と学習障害(LD)が判明したのです。

思えば長女は名前を覚えるのが苦手でした。イオンやニトリといった店名が出てこず、あそこ、あの緑色のお店なんだっけ、といった調子です。人名もしかり。お友達の名前だけではなく、担任の先生の名前すら出てこないときもありました。

特性に気づけなかったのが不思議なくらいですが、先生方の見立てを鵜呑みにしてしまったことと、“学習障害”を知らなかったことが要因かもしれません。

漢字ドリル1ページに3~4時間かかる長女を、なまけているだけだと思ってきました。

「いつまでやってるの」

心ない言葉を何度投げかけてきたでしょう。長女としては、必死で努力していることを責められている状態です。一体どんな気持ちでいたのでしょうか。

早く調べてあげればよかったと、後悔するばかりです。

ココロ貯金との出会い

特性を知り深く反省したものの、何をしたらよいのかはわかりませんでした。相変わらず登校できない次女も「消えたい」「わたしなんていなくていい」などと悲しい言葉を口にします。依然として、子育ての迷いは深いものでした。

 そんなときに、出会ったのがココロ貯金です。藁にもすがる思いで、子育て心理学カウンセラー養成講座の受講を決めました。

講座を受けて、わたしの気持ちは変わっていきました。

――長女の話を聴きたい。

 

元々ほとんど話さない子です。好きなことなら話してくれるかもしれないと、ゲーム、YouTube、歌などを足掛かりにしました。

「いつも何を見ているの? よかったらLINEで送って?」

長女の好きな動画を見せてもらい、感想を言い合います。他愛もない会話を重ねるうちに、部活や友達づきあいについても話してくれるようになりました。中にはそんな風に言わないでほしいと感じる言葉もありましたが、

「そう思ったんだね」

と否定しないように心がけました。否定はしませんが、わたしも本音で話します。

「そう思うことは間違いじゃないよ。でも、態度に出したらダメだよ」

 

 “聴く”ココロ貯金を心がけるうちに、会話ができるようになり、わたしたちの関係は変わっていきました。

2年後 ~長女の現在~

洗面所から長女の鼻歌が聴こえてきます。

「じゃあ行ってくるね~」

明るい笑顔で、ソフトテニス部の朝練に出かけていきました。

――朝から歌を歌ったりして、ご機嫌だなあ。

 

  中学校で驚くほど変わった長女。昔は起立性調節障害がひどく、無言もしくは泣きながら登校していました。今も薬は飲んでいますが、朝が早い試合の日でも自分で起きてきます。

 

大きな変化はわたしにも起こり、互いの心の距離が近づきました。以前は少し触れただけでも怒られましたし、わたし自身も触れたいとは思いませんでした。「いっそわたしを嫌いになってくれたら」という思いがよぎるほど、長女から離れたかったのです。

今は対等な会話ができて、買物にも一緒に行きます。一番下の息子(長女とは11歳差)の子育てでは、心強いパートナー。わたしが困っているととんできて、

「大丈夫? 今すごく大きな声出してたけど」

 などと、声をかけてくれるようになりました。

 

昔のネガティブな感情を表に出せるようにもなりました。

家族で行ったレストランで、息子がおもちゃを落したときのこと。届かないから後でいいかと話していたら、「わたしがとってあげる」と拾ってくれたことがありました。きわめて普通の行為なのですが、昔の長女なら無言で外を見続けたでしょう。

「なんで取ってくれたの?」

思わず聞くと、さらっと答えました。

「今までは、会話に入っちゃいけないと思ってた」

 

胸に刺さる言葉でしたが、この子は変わってきたのだと実感しました。思ったことを伝えても受け入れられると感じているのだ、人と関わろうとしているのだと。

 

部活も意欲的にがんばっています。団体行動が苦手な長女。お友達に馴染めずぽつんと後ろにいることが多いのですが、気にしてはいない様子です。客観的に自分を見つめ、

「わたしは独りでも平気」

 と考えているふしがあります。それでもペアの子には、「ドンマイ」「大丈夫だよ」などとちゃんと声がけしているのです。無駄話はしないけれども、役割は果たす。必要なつながりは大切にする。挨拶もする。大したものだと思います。

 

高校のことも考えはじめ、わたしのアドバイスにも耳を傾けてくれるようになりました。

「おねえちゃんががんばるなら、ママもがんばるよ。応援しかできないけれど」

 

 できるだけ触れぬよう、互いに距離をとっていたのは過去のこと。伴走させてもらえる今を幸せに思います。

2年後 ~次女の現在~

フードを目深にかぶっていた、次女はどうなったのかというと……「元気」です。

露出度が高いというかなんというか。肌寒くなってきたので「お願い、長袖着て」と言っても半袖のまま学校に行きます。いつも明るくよくしゃべり、放課後は毎日お友達と遊んでいます。部屋にこもり布団の中が定位置だった次女は、どこかへ消えてしまいました。

 

とはいえ、紆余曲折もありました。学校の方針が娘に合わず、一時は放課後登校すらできなくなったのです。「学校にきたら教室には必ず行く」というルールがあり、がんばって保健室に行っても「保健室にいてよいのは10分だけ」と決められてしまったことも一因でした。

 

子育て心理学カウンセラー養成講座でその話をしたところ、「おかしい」「無理だよね」「それはないよね」と、仲間達が口々に憤ってくれました。横で聴いていた次女も「わたしはこのままでいいんだ」と思えたようです。一時期は「大人は信用できない」と話すら聞いてくれない時期もあったのですが。

 

5年生の10月頃から適応指導教室に行くようになると、次第に毎日通えるようになり、ついには10時~15時のフルタイムで行きたいと言い出しました。そして、6年生になるタイミングで運よく校長先生が変わったこともあり、学校に戻ることができたのです。

 

本人の意思にまかせておけば大丈夫。

学校の対応がどうであれ、わたしの軸はぶれなくなりました。本人も情緒が安定し、不安になったときは帰ってママに話せばいいと思っているようです。

「今日もがんばってきたよ」

たくさん報告してくれます。

 

わたしにとってのココロ貯金は、自分を安定させる薬であり、娘たちとの距離を縮めてくれるものでした。長女の気遣いと次女の明るさに助けられ、手のかかる3歳児の育児も楽しみながら、笑顔の毎日を送っています。

お母さんが実践したココロ貯金

・ゲーム、YouTube、歌を足掛かりに、子どもの話を「聴く」

・違和感があっても否定せず「そう思ったのね」と「認める」

・否定はしないが、本音も話す

・適応指導教室の滞在時間は、子どもにあわせて少しずつ延ばす

vol.3「自分を…

娘を置いて仕事場へ

「今日は学校に行く」

前向きな言葉に期待を抱き、学校まで送ったものの、車から降りられない娘。

仕方ないねと引き返し、家で娘を降ろしてから、職場へ向かうためにエンジンをかけました。

 

やはりダメだった。

でも、仕事には行かなくちゃ。

 

気持ちを切り替えようと自分に言いきかせた瞬間に、涙がこみ上げました。アクセルを踏みハンドルを操っているのに、涙は止まりません。

 

わたし達親子はどうなるのだろう。

心の中では、嵐が吹き荒れていました。

【真山みつきさんのプロフィール】

中学3年生と小学6年生の姉妹のお母さんでワーキングマザー。

主人公の次女さんは、4年生のゴールデンウィーク明けから登校しぶりがはじまり、その後不登校に。

子育て心理学カウンセラー養成講座を受講したのは、次女さんが5年生の夏。

不登校は突然に

「隣の席の子がいやだ」

「先生こわい」

ゴールデンウィーク明けからネガティブな言葉が増え、登校をしぶるようになった娘。4年生の担任になった先生はとても厳しく、「忘れものは絶対にしたくないんだ」と繰り返し言っていました。“忘れものをしていない唯一の子” になってしまった娘は、むしろ追いつめられてしまったようです。夜に荷物を確認したのに、朝起きてからもまた確認。

「ママ見て、ママ見て」

と、わたしにもチェックを頼んできます。とてもナーバスな状態で、「絶対に見落としてはいけない」とチェックするこちらまでプレッシャーを感じるほどでした。

 

緊張で不安定な娘を心配しながらも、フルタイムで働く身。ゆっくりと向き合う時間をとれずに、慌ただしい日々を過ごしていました。

 

梅雨に入った、ある月曜の朝。

「学校やめる」

娘が突然言い放ち、わんわんと泣き出したのです。学校のことで涙を流したのは、初めて。ただ事ではないと、わかりました。翌朝起きてからも、ぽろぽろと涙を流し、そのまま学校に行かなくなってしまいました。

まるで、キャンドルの火が燃えつきて、ふっと消えてしまったかのように。

仕事を辞めるべき?

少し休んだらまた行くようになるかもしれない。

淡い期待は裏切られ、夏が過ぎても、娘は学校に戻れませんでした。一度離れると教室がこわくなり、入れなくなってしまったのです。

「行きたいのに行けない」

そんな娘の気分が上向いたときには、集団登校の集合場所に一緒に行ったり、校門まで送ったりするようになりました。

 

そうなると大変なのが、仕事の調整です。心が激しく揺さぶられました。

「今日は学校に行ってみる」と言われるとうれしいはずなのに、「ああ、仕事はどうしよう」と思ってしまう。夜中に突然目が覚め、「2時間目から行くって言われたら、誰に送ってもらおう」などと考えはじめ、眠れなくなることもありました。

 

いっそ休んでくれたら、という気持ちは娘にも伝わっていたと思います。4年生の2学期は、「朝の会だけ」「1時間目だけ」とちょこちょこ学校に行きました。しかし3学期に登校できたのは、わずか三度ほど。わたしの疲れが原因でした。

 

いつまで続くのだろう。仕事をやめた方がいいのかな。

そもそも、わたしが仕事をしているから、娘の心が安定しないのかもしれない。

 

事情を相談した年上の方に、

「お母さんがそれだけ働いているとね」

と言われたこともありました。

 

「そうです……か……」

うまく言葉をつづけられません。

自責の念は、常にわたしに巻きついていました。

 

苦しい。きっと、わたしが悪い。

ココロ貯金との出会い

「5年生になったら、絶対に学校に行くんだ」

4年生のときから、そう言っていた娘。決意は固く、「5年生になったらがんばるので見ていてください」というお手紙を、先生に送ったほどでした。

 

もうすぐ、春が来る。

一筋の光を信じて、ときの訪れを待ちました。

 

桜が咲いて春休みが終わり、約束どおり始業式に出席した娘。

けれどもその後は、思惑どおりにいかなかったのです。先生が何気なくおっしゃる「これは4年生のときにやったと思うけど」というフレーズに、心がしぼんでしまうようでした。心機一転の再スタートを期待していたわたしのダメージも大きく、気持ちが沈みます。

 

今日は行くのか、行かないのか。学校や職場との調整に気が抜けない日々。疲れがピークに達し、駆け込んだのが、東ちひろ先生の子育て心理学カウンセラー養成講座でした。

春は過ぎ、夏が来ようとしていました。

 

相談できる場所があるだけで、なんて心強いのだろう。

まず、気持ちが軽くなり驚きました。わたしは、自分のココロ貯金を放置していたのだと気づかされたのです。そして、安定した気持ちでココロ貯金を実践すると早々に効果があらわれ、さらに驚くことになります。娘の瞳に力が宿り、表情が明るく変わっていったのです。

 

「ひたすら聴いてあげてください」

ちひろ先生のアドバイスは、それだけ。ときには聞き流してしまうことのあった「ママ、ママ」は、「上手に聴いてくれたら、わたし伸びますよ」というサインですよとおっしゃいました。

学校に行けなかった本当の理由

娘の話を聴くことを意識すると、より深い心の内を話してくれるようになりました。

クラスにおしゃべりできる子がいなくてさみしかったこと。自分から輪に入っていくのが苦手なこと。隣の男の子や先生が嫌だっただけではなく、本当は女の子の友達がほしかったのだとわかりました。

わかるよと労わりながら、たくさん話を聴きました。

 

多忙な日々の中で、もう一つ心がけたのは「腹貯金」。話を聴く時間が足りない分、好みの違う姉妹のために、メニューを変えて朝食を作りました。かなりバタバタしましたが、好物を食べるときのうれしそうな顔が励みになりました。「自分のために作ってくれた」という喜びが、パワーに変わることを祈りつつ。

 

ココロ貯金と腹貯金。嘘のようですが、たった二つの貯金で、娘は毎日学校に行けるようになりました。自分から、靴を履いた――あのときの感動は、今でも忘れられません。

第二の壁

ただ、学校に行けるようになると、新たな問題が浮上しました。思春期の入り口に差しかかった、女の子同士のつきあい方の悩みです。

 

やっとできたお友達の中に、「私とだけ仲良くして」という子がいました。娘が他の子と遊ぶと、帰宅後にメールが届きます。

「こういうことがイヤだった」

「ああいうのもイヤだった」

「今度やったら許さない」

激しい言葉が並ぶメールを、娘は泣きながら見せてくれました。学校に行きたくないと言う彼女に、

「こんな風に言われたらいやだよね」

「嫌だったら、遊ばなくてもいいんだよ」

と寄り添いました。わたしにできるのは、話を聴くことだけでした。

娘とわたしの成長

さまざまな関わりを経て少しずつ、娘の心は強くなったように思います。

 

「メールでケンカみたいになるのがいやだから、わたしのアドレス消して。わたしも消すから」

ある日、その子に伝えたのです。以後は二人では遊ばず、大勢の中の一人だったら遊ぶ、という距離の取り方をしているようです。

 

友達ができないと泣きべそをかいていた娘。そんな娘の心の中にいつの間にか、友達に依存しない自立心が育まれていました。

「お互いにしんどい友達関係なら、なくてもいいや」と思えるようになったこと。ケンカ腰ではなく、「あなたはそう思ったんだね、わたしは違うんだ」と伝えられた娘を、頼もしく感じました。

 

子どもの力は、本当にすごい。

「信じて待ってくれるなら、自分で伸びていくんだよ」

娘に教えられた気がします。

お母さんが実践したココロ貯金

・ひたすら「聴く」

・お姉ちゃんと別メニューの朝食で「腹貯金」

vol.2「『学校…

冷たい廊下

「なぜ、わたしはここにいるんだろう」

コロナ休校明けのにぎやかな教室は、つきそい登校後に一人ポツンと待機する廊下の静けさを引き立てていました。少しずつ動き出した世の中に取り残されていくような心細さ。

これからどうなってしまうのだろう。この調子で休んでいたら、あっという間に有休もなくなってしまう……。

 

息子の通う小学校はわたしの母校で、楽しい思い出ばかりの場所でした。同じ場所にこんな気持ちで立つ自分を、誰が想像したでしょう。授業が再開され、他のお母さん達は今ごろホッと一息ついているかもしれません。なのに、わたしは……。みじめで悲しい気持ち。あの頃の気持ちを的確に表してと言われたら、わたしは「屈辱」という言葉を選びます。

 

恐らく何らかの特性をもつ息子(後にASDとADHDが判明)の小学校入学は、不幸にもコロナが蔓延しだした年と重なってしまいました。ルーティンが好きでイレギュラーが苦手な息子。密集を避ける分散登校で、ある週は学童に行ってから学校、翌週は学校に行ってから学童、という目まぐるしい生活に適応できず、いつも混乱していました。

 

「ぼくは保育園生なのか小学生なのか、全然わかんないよ」

泣きっ面で訴える姿が可哀そうでも、どうすることもできません。担任が厳しい男の先生になったことも拍車をかけてしまいます。

「もういやだ」

「学校はお化け屋敷だ!」

通常登校が始まって1週間で、「行きたくない」と言うようになりました。

【宮治ゆみさんのプロフィール】

3人のお子さんをもつワーキングマザー。まん中の長男さんは現在3年生で、ASD・ADHDの特性をもつ。

小学校入学のタイミングでコロナが流行。

自宅学習や分散登校など規則性のない生活、先生との相性など、さまざまな要素が重なり不登校に。

生活がまわらない

当時しんどかったのは、登校時のつきそいが私しか許されなかったことです。両親と同居しており、夫も在宅ワーク可能な職種。家族の手を借りられる恵まれた環境だったのです。けれども息子は、「つきそいはママじゃないといやだ!」の一点張り。

 

「なんでママは、僕を置いて仕事に行くの?」

「僕より仕事の方が好きなんでしょう」

「僕なんて死んじゃった方がいいんだ」

 

「そんなことないよ。生きていくために仕方なくお仕事しているんだよ」と説明しても、「行くな」とまとわりついてエレベーターに乗せてもらえません。身を切られるような思いで仕事に向かいます。

がんばって仕事を休んで保健室に登校しても、先生の手が足りず親子でプリント学習しているだけ。出入りも多く落ち着けず、学校から足が遠のきました。

 

息子は荒れていきます。ものを投げる。障子を破く。学校には全く行かなくなり、「ヒマだ、ヒマだ」と言いながら、時間だけが過ぎていきました。数カ月後にようやく来てくれるようになった支援員さんにも、「出ていけ」「帰れ」と暴言を吐き、キックしたり、暴れたり。

 

そのうち姉弟にまで影響が出てきて、家の中はもうぐちゃぐちゃ。

「あの子ばかりずるい。わたしだって学校に行きたくないよ」

2つ違いの姉が登校をしぶるようになると、弟まで保育園に行かないと言い出しました。

 

仕事を辞めた方がいいのかな。

しかし、わたしが仕事を辞めたところで好転するのだろうか。

これから、どうなってしまうのだろう。

答えの出ない問ばかりが、頭の中でぐるぐると渦まいていました。

兆し

息子は引きこもりになってしまうかもしれない。

不安でいっぱいだった頃、ココロ貯金に出会いました。藁にもすがる思いで東ちひろ先生の本やブログを読み、無料カウンセリングにも参加、やる気と自信を育てる3カ月の講座を受けてみることにしました。

 

講座で習ったのは、「聴く」「触れる」「認める」と本当に簡単なこと。こんなことで変わるのかと、最初は半信半疑でした。

けれども、まずはやってみよう。

なかなか起きてこない姉弟とは対照的に、ルーティンが得意な息子は早起きです。

「おはよう、早起きだね。あなたのそういうところ、大好き」

と伝えます。

また、息子は触れられることが好きだったので、ことあるごとにハグしたり、頭をなでたり。ときにはギューッと抱きしめながら眠ることもありました。まるで赤ちゃんの頃に戻ったよう。そして「あなたはそれでいいんだよ。大好きだよ」と伝えていました。

 

するといつの頃からか、情緒が落ち着いてきたのです。

あれ? 表情が明るくなった? 目も丸くなってきたような……。

学校に行けるなど目立った進展はありませんでしたが、顔つきは明らかに変わっていきました。

ローストチキンとショートケーキ

ある日、息子がこんなことを言いだしました。

「本当はぼく、給食食べたいんだ」

忘れもしない、クリスマス前のある日のこと。特別メニューのローストチキンとショートケーキを食べたいと言うのです。

「じゃあ、行ってみようよ」

クラスメイトには会わなくてすむように先生に調整していただき、空き教室で給食を食べました。「おいしい、おいしい」と言いながら。

 

この出来事をきっかけに、年明けからポツポツと給食の時間だけ学校に行くようになりました。食べる場所は空き教室から保健室になり、3年生になった今では自分のクラスで食べられるようになっています。相変わらずつきそいは必要ですが、まずおばあちゃんが許されて、2年生の夏には夫やおじいちゃんでも大丈夫になりました。

転機

もう一つ大きな転機となったのが、2年生の7月に心理の検査を受けたこと。息子はASDとADHDだと認定されました。実は以前から検査を勧められていたのですが、息子が嫌がりなかなか受けられなかったのです。ココロ貯金が貯まって自信が育ったからこそ、検査を受けようという気になれたのでしょう。結果、「放課後デイサービス」に通えるようになり、息子の世界はぐんぐんと広がっていったのです。

 

頼もしく感じたのは、「まあいっか」という言葉が増えたこと。以前はよく口にしていた、「あの子がいるからやだ」「あの子を見るとムカムカして、叩いてやりたくなる」といった攻撃的な言葉が激減しました。色々な子と接する中で、お友達とのつきあい方が上手になったなあと感じます。

 

「放デイ(放課後デイサービス)に通う」というルーティンができたおかげで、生活のリズムも整っていきました。

もちろん、最初からスムーズに通えたわけではありません。9月に通いはじめた頃は、「ママが一緒なら行くけど」といった感じでした。それを「隣の部屋で待っているね」「下の階で先生とお話ししているから1時間だけがんばっておいで」といった具合に、少しずつ距離を離していきました。そのうちに、「ママ、いったん家に帰ってもいいよ」「おばあちゃんとでも行けるよ」と息子の方から言いだして、その年の冬には、週に5日も通うようになったのです。

リモートでココロ貯金

ココロ貯金を学んだものの、時間は有限で体は一つ。仕事のせいで朝と夜しか子どもと過ごせないことには、引け目を感じていました。それでも、できることをできるだけ。

 

視覚優位の息子は家でタブレット学習をしていて、学習すると親にメールが届く設定になっています。通知を受けたら、こちらからメッセージを送信。

「4教科もがんばって、えらいね」

「4ケタの計算ができるようになったんだね」

など、リモートでココロ貯金をしています。キャラクターがハグしている「大好き」というスタンプなども、届くととてもうれしそう。他にも「今日の晩御飯は何がいい?」「カレー」「OK!」といった他愛もないやりとりで、つながりを感じています。

 

お昼休みにはラブコール。

「元気? お弁当食べた?」

「うん。おいしかったよ」

簡単に言葉を交わします。

 

お弁当にはフセンでメッセージ。

「あなたの大好きなソーセージ、入れておいたよ」

「デザートにこんにゃくゼリーを入れたから食べてね」

などなど。

 

「離れていても、ママはあなたの味方だよ」と伝え続けています。

変化した日常

3年生になった息子の日常は、次のような感じです。

4時間目が終わる頃、「おはよう!」と元気に挨拶しながら教室に入ります。廊下側の一番後ろが特等席。給食をいただいて、昼休みはみんなと外遊び。5時間目の始まりのチャイムとともに学校を出て帰宅。13時45分に家の前からバスに乗り、今度は放課後デイサービスへ。

見事なルーティンが完成し、毎日楽しく過ごしています。

わたしが仕事を休む日は、児童精神科の受診と教育センターの面談の月2日だけになりました。

 

今年になって、うれしい出来事が続いています。

一つめは、息子が運動会に参加したこと。体育の授業に出たことは一度もないのに、動画で覚えたなわとびダンスをぶっつけ本番で披露しました。踊りだけではなくフォーメーションの変更にも、周りの子の動きに合わせてしっかり対応。堂々とした姿を、驚き感心しながら瞼に焼きつけました。

 

もう一つは、日直のお仕事をしたこと。たまたまお迎えに行ったところ、目を見張りました。黒板の前で司会を務めているのは……息子!

「帰りの会をはじめます。今日のキラキラさんの発表をお願いします……」

台本にそって進行し、誰かをあてて、みんなで拍手。「みんなの前に出て話す」なんて、従来は考えられなかった姿です。熱いものがこみあげました。

 

入学直後に息子が登校できなくなったとき、つきそい登校は苦しいものでした。いつも心の中にくすぶっていた「なぜわたしだけ」「なんでうちの子が」という疎外感、屈辱感。

ところが今のわたしは、そのつきそい登校を楽しんでいるのです。

 

子ども達の様子を観察できるのもうれしいし、廊下で待っていると話しかけてくれる子もいます。

「○○くんのお母さん、今日のピアスかわいいね」

「最近○○くん、毎日来てくれるね」

やさしい言葉に、わたしのココロ貯金がたまっていきます。

先生達も、ちょっとした言葉をかけてくださいます。こんな温かさはわたし達しか味わえないものかもしれない。みんなに見守ってもらっているな、息子は幸せだなあと思うのです。

 

2年前は、感謝を感じる余裕すらありませんでした。

お姉ちゃんまで登校をしぶりだし、“生き残っている”子だけは何とか学校に行かせなければと、目を吊り上げて闘っていたあの頃。けれども、小さな変化やお姉ちゃんなりのがんばりを認めていったら、今では「私は私」とどこ吹く風の風情です。

コントロールできないものには固執せず、コツコツとココロ貯金だけをためる。すると「正しく伝わる」ものなのだなと実感しています。

 

ココロ貯金はわたしのお守り。心の安定剤の一つです。これさえためておけば、子どものやる気と自信はあふれ、次のステップにいけるのだと信じられるから。

そしてもう一つ変わったこと。わたしは自分自身も大切にできるようになりました。自らを満たすこと——子どもができてから我慢していたネイルサロンに行ったり、大好きだったサーフィンを再びはじめたり。自分が満たされていると、子ども達にもたくさん貯金をあげられます。

週末は家族で海へ。子ども達は浜辺で遊び、わたしと夫は懐かしい海風に吹かれながら、交代でサーフィンを楽しんでいます。

お母さんが実践したココロ貯金

・赤ちゃんにするような「ふれあい」

・「あなたはそれでいいんだよ。大好きだよ」と何度も伝える

・空き教室⇒保健室⇒教室、の「スモールステップ」

・放デイも、お母さんと一緒に参加⇒隣の部屋で待機⇒階下で待機……と「スモールステップ」

・タブレット学習のメッセージ、昼休みの電話、お弁当のフセンで「リモートココロ貯金」

・自分自身も大切に

vol.1「引きこ…

生きる力が急降下

ゴールデンウィークが明けると、息子が学校に行かなくなってしまいました。

部屋に引きこもり、食事も一日一食、どうにか口に入れる程度。一日中ごろりと寝ころんだまま、起き上がりもしません。みるみるうちに、活力を失っていったのです。

 

「お腹すいた?」

「わからん」

 

どんな言葉がけをしても「わからん」の一言しか返ってきません。生きる力が衰弱していくようで、心配で仕方ありませんでした。高校3年生という、受験を控えた大切な時期。しかし、それが些末なことに感じるほど、心と体が心配でした。

【福原早悠里さんのプロフィール】

現在大学1年生の長男さんと妹さん2人のお母さん。

高校3年のゴールデンウィーク明けから、長男さんが不登校に。

長男さんのメンタル急降下に悩み、子育て心理学カウンセラー養成講座を受講したのは同年の6月。

目立ちたがり屋の繊細くん

息子は地域でも名の通った進学校に通っていました。2年生では生徒会長、3年生では応援団長を務めるなど、学校行事にも積極的に取り組むタイプです。

しかし、アクティブな反面プレッシャーに弱く、過度なストレスを感じてしまうような繊細さがありました。団長や生徒会長という責任ある立場にもかかわらず、練習を休んだり、修学旅行に行かないと言ったり。周囲を振り回してしまうため、摩擦も生まれます。

 

修学旅行では紆余曲折がありました。

コロナ禍だったため、参加は希望制でした。集団生活が苦手な息子は欠席を希望。不参加はクラスで一人だったため、担任の先生だけでなく、学年主任の先生も説得にきました。頑なに断りつづけた息子でしたが、ちょうどその頃仲良くなったお友達の影響で、土壇場で行きたいと言い出しました。

さんざん説得しても「行かない」と言い張ったのに、すべての段取りが整ったあとに「行きたい」と言い出した息子。職員室に呼び出され、大変な剣幕で叱られたそうです。

先生が腹を立てるのもわかります。一方息子の側には「あれだけ参加を勧めたくせに」という不信感が芽生えてしまったようでした。

 

息子が登校できなくなった理由は今でもわかりませんが、根本的に、息子の性格が学校の体質と合わなかったのだと思います。良くも悪くも自分に正直な息子は、集団生活が苦手。学校から見れば異分子だったに違いありません。

 

親から見て、決め手となったと感じたことがあります。

地方には、「大学は国公立ファースト」の信仰が根づいています。しかし、息子の第一志望は東京の私立大(当時は慶応大学)でした。はなから苦手な理数系を捨てている彼の態度が、気にいらない先生もいたようです。世界史の参考書についてアドバイスを聞きに行ったところ、

「そんな勉強する前に、この間の化学の点数はなんだ」

と叱られ、教えてもらえなかったのだとか。

 

このように、さまざまな出来事が積み重なり、学校と息子の間には隔たりが出来ていきました。

 

どうすれば息子の活力は戻るのだろうか。

悩んでいた矢先に、大事件が起こります。

深夜の逃避

いない……!

ある夜、息子の姿が消えていました。知らぬうちに、家を出て行ってしまったのです。家族全員で、必死に探し回ります。

 

「自分はダメな人間だから、生きる価値がない」と、くり返し言っていた息子。恐ろしい想像がよぎりました。無事で見つかったときは、全身の力が抜けました。

 

生きていた! よかった。

 

以降は一人にするのが恐ろしく、同じ部屋で寝るようになりました。隣でどんな言葉をかけても、抱きしめても、反応はありません。家族は皆、暗い気持ちで過ごしていました。

ドクターを拒絶

5月の末、本人の希望で精神科を受診することにしました。息子はたぶん、あまりにもつらい状況を話したかったのだと思います。けれども不幸なことに、そのときのドクターは、聴いてくれるタイプの方ではありませんでした。

 

形式的な項目にチェックを入れると「鬱」と診断され、こう言われました。

「薬、どうします? これはもう、飲まなきゃ治らないよ」

 

病院を出て車に乗った瞬間、息子はぶわあっと泣きだしました。

「薬は絶対飲まないし、病院にも絶対行かない」

 

「違う先生に診てもらう?」

泣きじゃくる息子に聞いてみましたが、

「もう病院の話はしないで」

と、ぴしゃりと撥ね退けられました。

 

息子に言われて、一番つらかった言葉があります。死にたいと言う息子を励ましたくて、「生きていてくれるだけで、いいんだよ」と伝えたときのこと。息子は言ったのです。

「生きさせようとしないで」

 

ズキンと胸が痛みました。「死にたい」と同じ意味なのに、全く違う響きがあったのです。かける言葉が見当たらず、ただ立ちつくすばかりでした。

ココロ貯金しか、できなかった

もう病院にも行けない。

不安でいっぱいで、何かにすがりたい気持ちでした。以前から東ちひろ先生の書籍やメルマガを読んでいたわたしは、子育て心理学カウンセラー養成講座を受講することにしました。

 

状況を聴いたちひろ先生は、とても現実的なアドバイスをくださいました。

「トイレに出てきたときに『よく眠れた?』と話しかけるだけで、“承認”になるよね」

それだけでもココロ貯金ができるのだと、気持ちが軽くなりました。

 

仕事に出かける前には必ず息子の部屋へ行き、“触れる”ことにしました。横になっている息子の肩やお腹を、タオルケットの上からさすります。

「行ってくるね」

 

当初は無反応でしたが、じわじわとココロ貯金がたまっていったようです。ある日、小さな反応がありました。

「いってらっしゃい」

今、いってらっしゃいって言った!?

 

新緑の季節が終り、梅雨も明け、暑い夏が近づいていました。

息子は少しずつ元気を取り戻していったのです。

通信制の高校へ

――この調子なら、学校に戻れるかも!

 

在籍していた進学校は、12月には自由登校になります。夏休み明けから学校に行ければ、あと少しがんばるだけで卒業できます。期待しましたが、息子には通用しませんでした。

「戻らせようとしてるかもしれないけど、絶対に戻らないから」

以前、通信制の高校に行きたいと言われたときに、いいよと答えたやりとりを覚えていたのです。こうなると、テコでも動かない息子。進学校への復学は無理だと悟りました。夫と3人で通信制高校の説明会に出かけ、8月末には転校が決まりました。

 

転校先は、本人が選びました。通学は週に2日ほど。あとはオンラインで動画を見て、レポートを出すだけでよい学校でした。親としては、“普通”に通学するタイプの学校に行ってほしいと思いましたが、本人の意思に従いました。スムーズに卒業できたことを思うと、正しい判断だったのでしょう。

 

受験もできました。受けたのは早稲田と慶応の2校だけ。「行きたくない大学に入っても、たぶん辞めると思う」と言われ、ここでも息子の意思を尊重しました。しかし、時間不足は補えず、どちらも不合格という結果に終わりました。

 

合格発表から帰った息子は、なぜか明るい顔をしていました。

「落ちたけど、浪人してもいい? 問題集買ってきた」

生き生きとした表情を、今でもよく覚えています。

自分スタイルの浪人時代

浪人中の息子の勉強法は、“自学自習”のスタイル。予備校には行かず、模試すら受けませんでした。判定が悪いとメンタルが落ちると言い、模試を受けたのは最初と最後の2回だけ。仕事から帰って部屋をのぞくと、ゲームをしていることもしばしば。次も浪人かもしれないねと、夫とも話していました。ただ、自分のペースで勉強はしていたようで、英検の準1級を浪人中に取りました。

 

前年の2校はさすがに少なかったと言うので、どこを受けるのかと聞くと、

・明治大学(1学部)

・慶応大学(2学部)

・早稲田大学(4学部)

の3校だけ。

 

もっと滑り止めになりそうなところも受けたら? と言うと、

「受かっても行かないと思う、行ったとしても、つまらなかったら辞めると思う」

と言われ、じゃあ増やさないで、と思いました(笑)。

 

“みんなは”だとか、“一般的には”という主張が、通じない子なのです。そんな息子につきあううちに、こちらの芯も太くなっていたようです。

 

――本人が元気なら、2浪でもフリーターでもいいや。

本気でそう思えるようになっていました。

 

すると、驚きの結果が出たのです。なんと……、3校7学部すべて合格!

信じられない気持ちでした。

 

「報われた気がするね」

息子に語りかけると、晴れ晴れとした表情でこう応えました。

「自分もそう思ってた。つらいこと、苦労とかもいっぱいあったけどね」

広がる未来

現在息子は、東京で一人暮らしをしています。「つらくなったら戻ってくればいいよ」と伝えていましたが、夏休みの帰省まで戻ってはきませんでした。憧れていた大学に通い、キラキラと輝く日々を過ごしているようです。

心の軸が太くなり、つらいときには人に頼れるようになりました。日頃はLINEでやりとりしていますが、元気がないと感じたときは電話をかけます。すると、1時間でも2時間でも平気で話しつづけます。“聴く”ココロ貯金が有効な子なのです。

 

「バイトで頼まれたことがあるんだけど、俺、できそうな気がする」

「自己肯定感、本当にあがったね」

「爆上がりだよ」

こんな会話ができる日がこようとは。幸せです。

 

「何があってもお母さんが味方でいてくれるのは、わかっているよ」

うれしいことも言ってくれます。

 

「子どもを信じる」という言葉がありますが、昔は実感がありませんでした。けれども今は、こういうことなのだとわかります。とても壮大な将来の夢を聴いても、

――この子ならできるかも。

と、素直に思えるのです。子どもの可能性は、親が思うより大きいのかもしれません。

 

衰弱し、どんな言葉にも無反応だった息子に、愛情を伝えられた唯一の手段がココロ貯金でした。

夏空に向かって伸びてゆく樹木のように、たくましくなった息子の明るい未来を、今は確信しています。

お母さんが実践したココロ貯金

・トイレに出てきたときに、一言 “承認”

・出かける前に、“触れる”ココロ貯金

・転校先は、息子くんの意思を尊重

・受験先も、息子くんの意思を尊重

・浪人時代の勉強法は、息子くんに一任

・本人さえ元気なら、2浪でもフリーターでも構わないという姿勢。

・一人暮らしの息子くんには、電話で“聴く”ココロ貯金